第1章

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 ここに男が一人いる。その男は肩に降り積もる雪を気にも留めずに緩やかな川の流れを橋の上から眺めていた。  この男、笠原隆太はその川の流れに自分の憎しみを流し込もうとした。だが、到底できなかった。彼の中で暴れまわる憎しみはこんなちっぽけな川の流れでは流し去ることはできないからだ。  笠原は東北有数の大企業のエースだった。二十代後半でありながら、その仕事ぶりは社内の尊敬を集めた。そのうえ、上司への気遣いも欠かさず、上役たちからも気に入られていた。彼の会社人生は自他共に認める薔薇色のものだった。  しかし、その薔薇色の日々はもう笠原のもとにはない。あるのは会社の金を横領したという不名誉だけだった。  肩に降り積もった雪を払いのけて、笠原は深いため息をついた。なぜ、こんなことになってしまったのか分からない。俺は誰よりも会社に尽くして、誰よりも優秀な結果を残してきたのに。笠原は会社への憎しみとは別に小さな疑問を抱えていた。それは数いる会社員の中でよりによってなぜ優秀な自分が会社の汚れを背負い込まなければならなかったのかという疑問だ。  「君は会社だけではなく、私に対しても忠誠心はあるか?」  笠原が会社から追放された日の数週間前、笠原を緊急の用だと言って呼び出したのは直属の上司である本田一郎であった。この時、専務まで上り詰めていた本田を支えていた勢力の中でも笠原が本田のお気に入りだということは会社の中の誰もが知っていることだった。自分は頼りにされているという優越感が笠原の中にも確かにあった。だからこそ、笠原自身、本田の部屋に呼び出されたときは昇進の話でもされるのではないかと胸が躍っていた。しかし、実際に聞かされたのは自分の横領の罪をかぶってくれというものだった。  「この手紙にすべて記してある。死んでくれなんていうつもりはない。ただ今、俺のために死力を尽くしてくれれば悪いようにはしない。頼む」  深々と頭を下げた本田を見下ろした笠原の頭の中には何もなかった。虚無、空白、目の前で頭を下げる上司にどうしても現実味を持つことができなかった。  その日、笠原はうつろな目をしたまま本田の話にただただ頷き続けた。小一時間話を聞いた笠原は一筋の涙を流して家に帰った。
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