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彼女は乗り気ではなかった。仕事もあるのに急すぎる。けれど、死を目の前にした父親の前で断る言葉は喉につかえたまま出てこなかった。千奈美は千秋楽までの3日間だけ、劇場のオーナーを勤めることになった。
有給休暇を取った千奈美は父親に教えられた場所に向かった。演劇ホール「ビストバー ナイン」はビルの9階にあった。百人程度しか入らない、小さなハコである。ハコというのはホールやライブ会場の俗称で、千奈美は演劇を見に行っていた頃、気に入ってハコという表現を使っていた。
久しぶりの劇場は彼女の記憶をよみがえらせた。空気の薄い感じ、窓のない圧迫空間。9階と10階を貫いたであろう、突き抜けて高い天井。どのハコもそんなには変わらないらしい。
そんな中、劇団「無添加」は明日の公演に向けて稽古をしていた。どうやら人数も十人程度と少なく、照明や音響はもちろん、せわしなく座席で声がどこまで届くかを二人がかりでチェックしたり、ステージの端ではチケットの枚数を数えていたりしていた。中には自分の母親のようなよく見る演劇に情熱をかける人から、この劇団がなくなったら演劇を続けなさそうな、無気力な人もいた。
千奈美が入り口からぼんやり劇団の様子を眺めていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「ちょっと通りますね」
「……あぁ、すみません」
「あ、オーナーの身内の方ですか?私、劇団員のコタロウと……」
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