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そのひとは、眠っているときでさえ、眉間に深い皺を寄せている。 社長室からフラリと出て行ったきり戻ってこない市敬を探して、社内を歩き回っていた楓貴は、空いていた会議室の長机の上に寝転がっているそのひとをようやく見つけた。 窓を全開にして、初夏の風に吹かれながら、どうやら完全に眠っているようだ。 寝るなら、応接室のソファのほうが適していそうなのに。 机の上なんて、身体が痛くなりそうだけれども。 「イチ、そんなところで寝ていると、風邪引くよ?」 そっと声をかけてみる。 スースーと気持ち良さそうな寝息とは裏腹に、眉間の皺はぴくりとも動かない。 しかめ面で寝ているが、普段の迫力ある眼光が瞼の下に仕舞われているせいか、その小柄な体躯からは刺々しさも殺気も怒気もなく、酷く無防備に頼りなくさえ見える。 爽やかな薫風がふわりとそのひとのくせっ毛を撫でた。 それが、心地よかったのかもしれない。 ふと、眉間の皺が緩んだ。 そして。 楓貴は、その瞬間、見てはいけないものを見たかのように、顔を背けた。 市敬が、微睡みながら僅かに口許を緩め、あどけなく微笑んだのだ。 何かいい夢でも見ているのか。 そっと、視線を戻す。 そのひとはまだ仄かに微笑んでいる。 唇が、小さく動いた。 「………」 ほとんど聞き取れないぐらいの、微かな呟き。 楓貴は、息を呑んだ。 そして、今度こそ背を向けた。 そっと部屋を出る。 会議室入り口に貼ってあるプレートを「使用中」にひっくり返して、彼はその場を歩き去った。 市敬が、微笑みながら微かに呟いた名前。 それは、彼が10年以上前に失った子どもの名前だったのだ。 市敬の前から、母親の女がその子を連れて姿を消したのは、当時、まだ三ヶ月になるかならないかぐらいだったと思う。 それでも、市敬は、おそらくその子を溺愛していたはずだ。 歳の離れた弟の崇史をあれだけ可愛がっていたのだ。 自分の子どもならば、尚更だったはず。 母親の女に対してはどうだったかわからない。 逃げるように消えた様子から見て、たぶん、彼女には普段どおりの暴君スタイルを崩さなかったのだろう。 元気に育っているならば、今は中学生になったぐらいか。 確か、男の子だったと聞いている。 楓貴は会わせて貰ったことがない。 イチに、似ているのだろうか。
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