第5幕:エピローグ

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第5幕:エピローグ

 エピローグ。  辞書でその言葉を引くと、『小説や劇などで全体を締めくくる言葉や終わりの部分』『終章』だと出てくる。小説ではよく後日談などを書かれるアレだ。だから、これは俺の記憶の一つを取り上げたお話の終章で、俺と彼女の後日談だ。  そう。ここから先の話はあくまでも一つのお話の後日談で、終わりを迎えた話の補足のようなものだ。  メインではない。俺と彼女のお話はまだまだ子供だったあの頃にとうに終わりを迎えてしまっている。  俺たちは先に進むことはなかった。  それぞれがそれぞれの道を歩み始めたが、ともに進み始めることはなかった。  もしかしたら夢なのかもしれない。  ここから先のエピローグは俺の見ていた夢なのかもしれない。  真偽は定かでないが俺はきっと、また、同じ夢を見ていた。  年月が経つ事で見る理想が、夢が変わったのかもしれない。  だから、ここから先の話は聞きたくないのなら別に聞かなくてもいい。  それでも俺は話すから。  こんなつまらない話のその後が気になるというもの好きがいるのなら、そんな人たちのために俺は話す。  たった一つの報われなかった初恋と後悔の物語の結末の先の物語を。 「凌はさ、初めて誰かに恋をした時のことを覚えている?」  京華がそんな事を突然言い出したのは俺たちが知り合って二週間が経とうとしていた頃だった。  あの日から数日ほど、学校から帰ってきた時にばったり会うということが連続してあったものだから俺たちは昼の一時ほどに互いの家の敷地の境目に出向いて世間話をするという習慣がすっかり身についてしまった。  俺たちの家の敷地の境目には特別何かがあるわけではない。  塀で遮られているわけでもなく、ただ土地と土地の間で砂の質が若干だけれど違うだけだ。  そんな場所で、何かに縛られるように俺たちは互いの家の敷地から相手の家の敷地に踏み出すことなく、決して相手の側に踏み出すことなくお行儀よく敷地の果てに座り込んで世間話をする。  そんな中での京華からの突然な質問だった。俺は、心臓が跳ねるのを自覚した。 「そんなこと……。京華は覚えてるの?」 「私? 私はね……」  京華は口元を隠すように両手のひらを指の腹だけ合わせながら吃った。 「もう朧げだけれど、私は覚えているよ」  俺には、京華が初恋とやらの記憶を綺麗なものとして大切にしているように見えた。 「相手はどんな人だった?」 「気になるの?」 「まぁ……多少は」  俺がそう言うと、京華は少しだけ驚いたように目を見開いた後、すぐに嬉しそうな笑顔を作った。  それが作ったものなのか自然に出来上がったものかはわからない。  俺は俺で京華ではないからだ。 「もう顔は思い出せないんだけどね、初恋の相手は私とは真逆の人間だったの」 「……」  こちらの顔色を伺うように俺の顔を覗き込んでくる京華に話を続けるよう無言の時間を返した。 「きっと、あの人は乱暴な人間だったと思う。けれどね、なんて言えばいいのか、やりたいことをやって好きなように生きている感じがした。面倒な物事から面倒だという理由で逃げて、好きな事にはどんどん時間を使おうとするような、そんな人間だった。そういえば目玉焼きにソースをかけていた気がするな。本当、不思議な子だったよ」  俺は目玉焼きには醤油をかける派だ。  だからやっぱり、京華はけーちゃんではない。 「京華は目玉焼きに何をかける派?」 「え、目玉焼き?」  突然話を遮られて京華は少しだけ困惑した。  けれど、すぐに答えてくれた。 「私は、目玉焼きは醤油じゃないと食べられないの」  もうわかりきっていた事だった。京華とけーちゃんが違うなんて事。  だけれど、俺は何かを期待して事あるごとに京華とけーちゃんを比べてしまう。  二人が同じ人物であってほしいと願う一方で、二人が別人である根拠を手に入れて落胆してしまう。  そして、落胆する事でどこか安心してしまう俺がいる。  けーちゃんは、目玉焼きは塩胡椒の下味だけで食べる派だった。  醤油なんてかけない。 「ごめんごめん。話を逸らしちゃったよ。続きを聞かせて」 「続きって言ってもな〜。そうだ。私、昔はもっと根暗な性格だったの」  もう、そこまででなんとなくだけれど話の終着点が読めた。 「でね、私は初恋の男の子に憧れたの。こういう人間になりたいなって。だって私が持っていないものをたくさん持っているんだもん。隣の芝は青いっていうでしょ?」  だから、私は彼になろうとしたのと京華は言った。  なんというか、極端すぎる話だなと俺は思った。 「もしかしたら私の初恋は恋愛感情なんて薄桃色のものじゃあなくて、単純に人としての尊敬、憧れに近かったのかもしれない。凌もない? こういう人間になりたいなっていう目標的なの」 「なくはないかな」 「でしょ? 私にとってのそれが初恋の男の子だったの」  そんな話を俺にして、一体彼女は何を考えているんだと思った。  別に彼女の初恋の思い出を聞いて気分を悪くしたわけではない。  けれど、何か共犯者的なものになってしまったような感じがして、罪悪感のようなものが心の奥底から湧き上がってくる感覚が俺を襲った。  だから、俺も彼女を共犯者にしてやろうと思った。 「俺の初恋は中学三年の時だった」 「あれ、覚えていないんじゃなかったの?」 「覚えてないなんて俺は言ってないよ」 「そうだっけ?」 「そうだよ」  出鼻をくじかれてしまって俺は少しだけ話す気が失せてしまった。  けれど、彼女を共犯者にするために俺は話を続けた。 「本当に一目惚れだった。当時好きだった女の子に会いに行った時、その途中で俺は偶然知り合った女の子に一目惚れしたんだ」 「それ、初恋じゃなくない?」 「……それは俺も思った。散々迷った。二人に抱く感情がそれぞれ異なる事を自覚していて、どちらも恋と呼ぶ感情なのだとどこかで理解していた。けれど、俺は一目惚れした女の子への感情を恋なのだと定義した。だからこれが俺の初恋だ」 「ふーん」  別に興味がないとかそういうのではなく、京華は話のテンポを良くするように会話に合いの手を入れた。 「俺はその子の事が好きなのだと気付いた時、同時にきっとこの恋は報われないのだろうと思った」 「それはどうして?」 「理由は二つあった。一つは優秀なボディーガードが付いていた事」 「お嬢様なの?」 「そういうのじゃないけど、父親が娘はやらんぞ!って言うあれあるだろ?似たのがあったんだよ」 「……ふーん。で、もう一つは?」 「彼女があまりにも自分と違いすぎた事」 「……」  京華は無言の時間を返してきた。  続きを話せと促しているのだと俺は理解した。 「あいつはさ、おとなしい女の子だったんだ。いや、おとなしいというよりは物凄くまともな人間だったんだ」 「まとも?」 「そうだ。まともだ。あいつは自分一人の幸せよりも自分を取り巻く周りの人間の幸せを願った。まるでそれが自分の幸せであるかのように振る舞っていた」 「それのどこがまともなの?少なくとも、私からすればまともじゃないように聞こえるよ」 「そう言われると確かにまともじゃないように思えるな……。でも、少なくともわがままばかり言って生きていた俺よりはずっとまともだと思った。だから、こんなにも正しい少女が俺みたいな間違った人間と結ばれる事はないだろうと思った」 「そんなの……。気持ちは伝えたの?」  悲しそうな表情をする京華に、俺はわざとらしく首を振ってみせた。  否定を意味するように、ゆっくりと噛み締めるように、横に振った。 「言ったろ?あいつは周りの人間の幸せを願ったんだ。俺があいつに好きだと伝えたら、あいつは俺の幸せを踏みにじらないように必ず受け入れる」 「……」 「でも、それじゃあダメなんだ。あいつの幸せが前提に無い。俺は、俺を幸せにしてくれた少女の事を幸せにしてあげる事はできない。なにせアイツの事を俺は何も知らなかったんだ。何が好きなのかとか、何に対して幸せを感じているのかとか、そういったものを何も知らなかった。だから、俺は自分も幸せを切り捨てたんだ」  後になればなるほど鮮明になる当時の俺の心境は本当に吐き気がするようなものだった。  だって、そのほとんどが耳障りのいい言葉だけを並べた虚偽だからだ。  本当のところ、俺は怖気づいただけだ。  他人を拒絶する事が無いと思い込んでいた相手に拒絶されてしまったらと言うもしもを想像し、勝手に怖くなって逃げ出しただけだ。 「だからその女の子に気持ちを伝えなかったの?」 「そうだ。それがアイツのためになると思ったから俺は自分の気持ちを大切にしまい込んだ」  京華はしばらく俺の顔を見つめた後、小さくため息をついて右手の人差し指を立てた。 「一つ、私の初恋の話のその先を話してあげる。エピローグってやつだね」  そう言うと、京華は呼吸を整えるように一度だけ深く息を吐いた。 「私の初恋の男の子はね、私の事が好きだったの」  突然自慢のようなカミングアウトをされて、俺は少しだけ驚いた。 「私自身は気付かなかったんだけれど、弟がどうも本人と話をして聞き出したみたいで、私は両想いなのだと気付いた嬉しかった。だから、この人と恋人の関係になりたいとより一層強く願うようになったの。けれど、私は根暗で内気だったから自分から思いを伝えるような事はできなかったの。だから……」  だから私は待とうと決めたのと京華は言った。  自分からは思いを伝えられないけれど、きっと自分の事を好きな相手の男の子は自分にできない事をやってくれる。  私に思いを伝えてきてくれる。  だからそれを待とうと私は決めたのと、京華は悲しい思い出を思い出すようにすぼんだ声で語った。 「でもね、私が待ったその瞬間は来てくれなかった。彼が私に思いを伝えるよりも前に、私は彼の居ない遠い場所に行かないといけなくなったの」 「引っ越しでもする事になったの?」 「うーん。もう詳しく思い出せないんだけど多分そんな感じだった。で、その時私はなんて思ったと思う?」 「……さあ」 「どうして私に気持ちを伝えてくれなかったのかと思ったの。彼が私を望んでくれれば、私はそれを受け入れるつもりでいたのに、それが私の幸せでもあったのに、どうして彼は何も私に言ってくれなかったのだろうって私は思った」  どう? とでも問いかけるかのように、京華は俺を見つめてきた。  俺は、思わず目をそらしてしまった。  さっきよりも詰め寄ってきた京華の甘ったるい香りから逃げるように、俺は目をそらした。 「それから京華はどうしたの?」 「どうもしなかったよ。彼の人生に私は居なかったって自分に言い聞かせて、私も彼がいない日常に戻っていった。それからは普通に学校に通って勉強して今になるかな」  結局、俺はただ彼女の共犯者にされてしまっただけで、彼女を俺の共犯者にする事はできなかった。  そうやって互いの過去を教えあうような日々が続いてまた二週間が経過した。もう八月の半ばで、川祭りも神社の祭りも終わってしまった。あの夏にけーちゃんと見た思い出の花火を今年はしらのと見た。  一緒に見る相手が違えば花火の見え方も変わるのかと思っていたけれど、そんな事はなかった。黒に染まり切らない淡い群青色を染め上げた光の花はあの人変わらずに綺麗なままだった。  俺と京華の関係は相変わらずだった。昼頃に世間話をするだけで、それ以上に発展することはなかった。別にそれを寂しいだとか物足りないと思う事はなかったけれど、話している最中に時折顔を赤くする京華の様子が気になった。  初恋の話をして以来、俺たちは恋についての話をする機会が増えた。  初恋の思い出の深堀もそうだけれど、互いにどんな異性が好きなのかとかそういった話をする事が多くなった。  けれど、京華はすでに結婚しているわけで、その事実が俺たちの関係を変わらずに保たせてくれた。  さらに時間が過ぎ、八月も終わりにさしかかろうとした頃、俺は偶然見かけてしまった。  母親に頼まれて洗濯物を干していた時だった。  見慣れた人影が京華の家に入っていくのを見た。  それはしいたけ婆ちゃんの家で暮らして居る和志で、インターホンの音を聞いて玄関を開けに来た京華は和志の顔を見るなり嬉しそうに家の中にいる誰かを呼んだ。  京華に呼ばれて出てきたのはもう随分と成長してしまって見た目が変わっていたけれど、確かに彰人だった。  彰人は嬉しそうに和志とハグをすると、家の中を指差して何かを言った。  そして、三人で楽しそうに笑いながら家の中に入っていった。  その様子を見て、俺は何もかもを勘違いしていたのかもしれないと思った。  リビングで百均の充電器に繋がれていたスマホを手に取り、俺はすぐに自分の部屋に戻った。  電話帳から名前を探し出し、俺は迷わずコールした。  プルルルルと音がなり、すぐに相手は電話に出た。  俺は自分を落ち着かせるために深呼吸をして、しっかりと言うべき事を話そうと口を開いた。 「雪乃。話があるんだ」  彼女の事を雪乃と呼んだのなんて、実に十年ぶりぐらいだった。  俺が彼女の事をしらのと呼んでいたのは一種の愛情表現のようなもので、彼女が特別であると主張するようなものだった。  それをしなくなったということはもう彼女は俺にとって特別でもなんでも無くなってしまったという事で、それだけのことで雪乃は全てを察した。  いつかこんな日が来るだろうと思っていたと最初から諦めていたかのように雪乃は言った。  俺は彼女にごめんと謝る事しかできなかった。 『いいよ気にしなくて。凌があの女の子の事をまだ好きだってのは知ってた事だし。その代わり、フラれたら迷惑料として私に雪月花の一番高い焼肉コースをおごってよね』  雪乃の声は分かりやすい涙声だった。 「わかった。その時は残念会として朝まで呑もう」 『それは私たちには背伸びしすぎだよ。朝までカラオケね』 「じゃあそれで」 『いってらっしゃい』 「……ごめん。ありがとう雪乃。行ってきます」  俺は通話の終了ボタンを押して、すぐに身支度をした。身支度と言っても部屋着から近所に出かける時用の簡単な服に着替えるだけだ。  時間はまだ十一時ごろで、いつもの時間よりもかなり早かった。けれど、俺はいつもの世間話の時間まで待てるほど真面目な人間じゃなかった。心臓が高鳴った。  話し始めはどうしようか。どうやって本題を切り出そうか。そればかりを考えながらサンダルを履き、家を出た。  もうすぐ秋になるとは言えまだ八月。  照る日の光は眩しくて、肌がジリジリと痛むほど暑くて、俺は思わず目を細めた。背中に粘っこい汗がにじむのがわかった。  けれど、俺は歩き始めた。  快晴というほど天気は良く無い。空には雲がたくさん浮かんでいて、雲の流れからしてきっと夜には雨が降る。けれど、そんな事は今の俺には関係なかった。  こうして俺は敷地と敷地の境界線をまたいだ。今まで一度も足を踏み入れた事の無い京華の家の敷地に俺は確かに一歩踏み出した。  ここから先がどうなったのかだって?  それはもちろん……
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