5人が本棚に入れています
本棚に追加
/65ページ
第4幕:上書きの夏
けーちゃんと花火を見た日の夜中、どうしても寝付けなかった俺はパピコを持って外に出た。
もしかしたらこの前のようにけーちゃんも起きていて、その時と同じように一緒に星でも見ることができるかもしれないと思ったから。けれど、俺を待っていたのはそんな美しい時間ではなかった。
外に出ると和志が居た。和志はぼうっと空を眺めていて、頬には涙の流れた跡があった。
「なに泣いてんだよ」
声をかけると、和志がびくりと肩を震わせた。
「泣いてねぇよ」
「ダウトだね。涙の跡がついてる」
和志はハッとして頬や目元の涙の跡を拭いとった。
「そんなとこまで見てんじゃねぇよキモいな」
「はいはい。で、なんで泣いてたんだよ」
「……俺、帰ることになったんだ」
なんとなくだけれど分かっていた事だった。
こいつと彰人が変に気を遣ってきたのにも納得がいった。
「いつ、帰るんだ?」
「……明日」
「そうか……。随分と急なんだな」
「もともと父さんと母さんの用事が済めば帰る予定だったからな」
「で、それが済んだのが今日だったって事か?」
「そうなるな……。で、帰る日程が決まったのはついさっきだ」
「そうなんだな……」
こいつらが変に優しかった事と話がズレると思ったが、そこは特に気にしない事にした。
手に持っていたパピコを片方だけ和志に渡し、二人でそれを食べながら空を見た。
コーヒー味がものすごく甘くて、喉に引っかかるような重い感覚に不快感を覚えながら、パピコを選んだのは失敗だったかもしれないと思った。
パピコを食べ終えて家に戻ろうとした時、和志は最後に「ありがとう」と言った。パピコの話なのだろうかと思って気にするなと言うと、和志はそうじゃ無いんだと首を振った。
「あんなに幸せそうな姉ちゃん、俺は初めて見たよ。きっと凌のおかげだよ」
「お礼を言うのは俺の方だ。けーちゃんや彰人、それからお前のおかげで俺は今までで一番充実した夏を過ごせたよ。ありがとう」
「また遊びに来るからさ。キャッチボールしてくれよな」
それぐらいなら何時でもやってやるから好きな時に遊びに来いと言い、俺は今度こそ家の中に戻った。
この日、俺は不思議なくらいぐっすりと眠る事ができた。
人間が眠る事ができない時は、大体の場合でその日に満足できていないからと言う話を聞いた事がある。
それを踏まえるならば、俺はこの一日にとても満足していたのだろう。
悔いというものが残らないほど満足のいく一日を過ごしたのだろう。
そして朝になり、七時に目が覚めた時にはすでに和志はこの街から居なくなっていた。
その一年後に和志はしいたけ婆ちゃんの家に引っ越してくる事になった。
何かのたとえとかではなく、本当に、和志は向かいの家に越してきた。
俺はその事実を素直に喜ぶ事ができなかった。なにせ、引っ越してきたのは和志だけだった。
久しぶりに会った和志は随分とやつれていて、会ったばかりの頃のような明るさは微塵も残っていなかった。それを和志に伝えると、それはこっちのセリフだと笑われた。
この時、俺は初めて和志の家庭の事情を知る事になった。
そもそも、和志と彰人、それからけーちゃんが両親に連れられてこの町に来たのは、両親の離婚の話が原因だった。
離婚の原因はこいつらの母親が鬱病になった事、その事で色々と耐えられなくなった父親が浮気をした事だそうだ。
以前、けーちゃんから家族五人で花火を見に行った時の話を聞いた。
その時がいわゆるピークと言うやつだったそうだ。
時間が過ぎるごとに両親の仲は悪くなって行き、離婚の話が浮かび上がったところで、しいたけ婆ちゃんに相談するためこの町に来たそうだ。
けーちゃんや和志、それから彰人は両親の用事が終わるまでこの町にいると言っていたが、最初から離婚が成立するまでこの町で厄介な子供達を預かってもらうという意味合いだったらしい。
そうしてあの夏祭りの日。
俺とけーちゃんが並んで花火を見たあの日。
昼頃には離婚が決まり、役所に書類を届けに行っていたらしい。
家に帰った両親はその日の晩のうちに帰宅すると言い、それまでに姉弟三人に選択をするよう言った。
その選択は、どちらについていくかと言うものだった。
結果として、けーちゃんと彰人は父親を放っておく事は出来ないからと父親の方について行き、和志は一人でまともに暮らす事ができない母についていった。
これも後々聞かされた事だが、和志と星を見ながら話した時、すでに彰人とけーちゃんは父について町から出て行っていた。そして、朝方に和志が出ていったそうだ。
何もかも、俺の知らない事だった。
俺は何も知らなかった。
こうやって和志から俺の知らない情報を次々と渡され、俺はようやく知る事ができた。
けーちゃんの涙の意味も、彼女が選んで放った言葉の数々の意味も、何もかもを想像する事ができた。
彼女はきっと、助けを求めていた。
怖がっていた。
日常が崩れ去り、これまで積み上げられてきたものが消え去る事に恐怖を覚え、助けて欲しいのだと悲鳴をあげていた。
けれど、俺はそんな事に気づけるほど大人ではなかった。
「で、何?いまも後悔してるって?お前本当にクサイ事ばっかり言うよな」
気持ち悪いぞとガハガハ笑いながら、和志は手にしていたグラスの中身を一気に飲み干した。和志が深く吐いた息はアルコール臭がキツかった。
「クサイ事ばっかり言ってるわけじゃあ無いだろ。でさ、お前本当にけーちゃんの連絡先知らないの?」
「しらねぇよ。そんな事よりも呑めって。呑んで忘れろ」
それ以上つまらない話はするなと、和志は瓶の中の琥珀色の甘い液体を俺のグラスに注いだ。その勢いで和志は自分のグラスにもなみなみに注ぎ、中身を再び一気に飲み干した。
もう、俺は十九だ。彼女がいなくなって四度目の夏が来る。
俺は大学一年生になった。
訳あって行きたくも無い高校に通った後、その高校の先生からの勧めで行きたくも無い大学に通う事になり、俺はいまそこに通って経営学を学んでいる。
対する和志は高校二年生になった。
これも後になって知った事なのだが、和志と俺は年齢が二つしか違わなかったのだ。
てっきり五つ程度は違うものだと思い込んでいたからかなり驚いた。
ともあれ、俺たちは再会し、こうして社会不適合者として本来は味わう事のできない罪の味を嗜んでいる。
和志の真似をして琥珀色の液体を一気に喉に流し込むと、香木のような香りが鼻に抜けた後、焼けるような感覚が喉を襲った。端的に言って不味かった。
そうやって美味しいなんて微塵も感じない液体の数々を嫌々ながらもヤケクソ気味で次々に喉へ流し込んでいると、昔好きだったアニメの曲が流れ始めた。俺の携帯の着信音だった。
今のご時世で無料通話アプリを使わずに電話をかけてくる人間なんて一人しか俺は知らない。
俺は画面の白藤雪乃と言う名前の下に表示された通話開始ボタンを渋々だけど押し、「もしもし」と通話相手へ言葉を催促した。
『あ!もしもし? 今日ってさ、アパートか実家のどっちに居るの?』
「実家だよ」
『あーそうなんだ。そっかー』
自分から聞いておいてその反応はなんだと思い、俺は少しだけムッとした。
「で、なんの用だった?」
『いや、ちょっとアパートの近くで遊んでたから今日泊めてもらおうと思って』
「あー。じゃあごめんな。俺いま和志と遊んでるんだよ」
『あ……そっか。じゃあ仕方ないよね』
全てを悟ったかのように言葉を残し、しらのは通話を切った。
自分からかけてきておいてロマンティックのかけらもなく通話を切られるとは思ってなかったから、俺はしばらく画面に表示された通話終了の文字を眺めていた。
そんな俺の様子を見て、和志が諦めたようにため息をついた。
「いいのかよ。彼女なんだからもっと大切にしてやれよ」
「ああ。うん」
俺はそんな生返事しか返せなかった。
思い返せば昔からそうだ。
昔から俺は都合の悪い事については生返事を返す事しかできない。
そんな自分が嫌で何度か変わろうと試みた事はあったが、結局は今も変われずにいる。
本当、どこまでも子供のままだ。
「それよりもさ」
次々と美味しくもない液体を喉に流し込みながら、言うべき事があるとでも主張するように、和志が口を開いた。
「お前、彼女がいるんだろ。あの綺麗な人、雪乃さんだっけ?」
「……まぁ」
「でさ、今もあの人から電話があったわけだけど、その上で姉ちゃんに会いたいとか言ってんの?」
「………」
今度は生返事すら返せなかった。
さっきの俺よりも最低だ。
「たぶん。凌が会いたいって言えば姉ちゃんは喜ぶし、そんで姉ちゃんも会いたいって言うと思う」
「…………だから、俺はずっとけーちゃんに会いたいって言ってるだろ」
「ああそうだな。でも、俺は今のお前を姉ちゃんに合わせる事はできない」
「それはどうしてだ」
「誰一人として楽しかったあの頃と同じじゃないからだ」
眠くなってきたと言って目元を手の甲で擦る和志を見て俺は違和感を覚えた。
「……あれ。和志お前、今の俺とけーちゃんを合わせる事ができないって言ったよな」
「ああ。言ったな」
「それって……」
合わせるための手段があるって事なのか?
俺がそう聞こうとしたタイミングで、和志は自分の失言に気づいたように両目を見開いた。
「喋りすぎた。もう帰る」
「あ、おい待てよ」
「嫌だね。あとは一人で悩んでろよ」
それだけ言い残し、和志は学校のカバンを掴んでさっさと我が家から出て行ってしまった。
夏休みってのは特番を名乗るくせに面白くないテレビ番組がいくつもやっていて、俺はリビングのソファに寝っころがってその中ではまだマシな方のバラエティ番組を見ながら特別な事が起きない退屈な夏の時間を食いつぶしていた。
すると、同じくリビングでテレビを見ていた母が思い出したとでも言うように「そういえば」と言葉を放った。
「隣の家、完成してたでしょ?」
「あぁ。そういえば隣に家作ってたな」
そしてそれは一年ほどの長い時間をかけて完成されていた。
「で、あの家って若い夫婦が建てたって言われていたよね」
「そうだっけ?」
記憶になかった。
「そうそう。で、今日あんたが出かけている間にその夫婦が二人で挨拶に来てたんだけど若い夫婦って言ってたけど結構な歳の差よ?」
「へぇ」
正直いってあまり興味のある話題ではなかった。
母は少し昼ドラとかの見過ぎでちょっとでも自分の境遇と違う人間を見つけるとすぐに興味を示してしまうだけだろうと思った。
「へぇってあんた、興味なさそうね」
「あんまり興味ないね」
「ああそう。ま、しゃべり続けるから問題ないけどね」
何が問題ないのかはわからないが、母は宣言通りに話し続けた。
「奥さんの方はたぶんだけどあんたとそんなに年が変わらなくて、旦那さんの方は30代半ばぐらいだったの。それで、奥さんの方なんだけどモデルか何かやってるんじゃないかってくらい綺麗な人だったのよ」
そこから先の母の話はここまで以上につまらない話だったから俺はもう覚えていない。
けれど、俺が必要ないと切り捨てたその情報は思いの外に重要で、三日経った七月二十四日の昼間に脅威となって俺の前に現れた。
もしかしたら脅威という言葉はふさわしくなく、何か他の言葉を当てはめるべきかもしれない。
だとしても、その出来事が俺にとって望ましくない物事である事は間違い無く、俺は再びあの夏の事をより強く思い出してしまう事になった。
七月二十四日。それは夏休み初頭の一日だったけれど、日頃の怠慢の影響で学校へ補講のために出向かなければならなかった日だ。
朝の九時から三時間にわたる補講を終え、俺は一人暮らしをしているアパートでは無く実家へと戻っていった。
というのも、夏休みはバイトを一日も入れず、すべてを実家でダラダラと過ごそうと決めていたからだ。
親に借りた車を慣れない手つきで実家の狭い駐車場に止めていると、不意に向かいに建った一軒家が目に入った。
白を基調とした二階建ての一軒家だ。
その家の、我が家とは違って庭先ある物干し場で一人の女性が楽しそうに洗濯物を干していた。
俺はその様子を見て息を飲んだ。
なんて美しい女性なんだ。そう思ったからだ。
長い黒髪を後ろで束ねたその女性は左目尻にあるホクロのせいか、やけに大人っぽく見えた。
どことなくだけれど、あの少女に似ていた。
今も記憶に焼き付いて俺を蝕み続けるあの少女に。
しばらくの間、見惚れるようにその女性を見つめていると、向こうは視線を感じたのか俺に気づき、少し驚いたような顔をした後に小さく頭を下げてきた。
妙に色っぽいその仕草に引っ張られるように、俺も会釈を返した。
「こんにちは」
女性は洗濯物を干すのを中断し、こちらに歩み寄ってきて声をかけてきた。
「こ、こんにちは」
「ふふふ。そんなにかしこまらなくても大丈夫ですよ。きっと、同じような年齢でしょう?」
語調の固い俺の様子を見て、女性は微笑んだ。
あの少女も似たようなことを言っていたと気付いた。
きっと、多くの人間はこの女性とあの少女を同一人物だと感じるだろう。
現に俺もそう疑った。
容姿はどことなく似ていて、同じような言葉を俺にかけていた。
可能性は十分にあった。
けれど、二人は別人なのだと俺は確信した。
女性は綺麗な高い声をしていて、あの少女のように鼻が詰まったようなくぐもった声はしていなかったからだ。それに……
「この前挨拶に行った時にはいませんでしたよね?」
「あ、ああ。えーっと。ちょっと用事で出かけていたので」
「大丈夫ですよ。敬語じゃなくて」
「それは……そっちが敬語なので」
「ああ。そういうことなら私も敬語は辞めるね」
そう言って女性は微笑んだ。
今、目の前にいる女性は声質からしてあの時の少女とは違う。
それに、何より女性の言葉遣いやその態度はいつかの少女のように丁寧すぎるものではなく、砕けているものだった。
だからこそ俺は確信した。
二人は別人だと。
「ありがとう。じゃあ俺も敬語は辞める」
「ふふふ。こちらこそありがとう。私、こっちに引っ越してきたばかりで友達が居ないの。よかったら仲良くしてくれる?」
そう言いながら差し出された女性の右手を俺は自分も右手を差し出して確かに握り返した。
「俺でよければ。仲良くさせてもらうよ」
「ありがとう。これで寂しい思いをせずに済むわ」
新婚なんだから寂しい思いをすることはないだろうと思ったけれど、それを口に出すのは無粋だと思ったから控えた。
「私は荻野京華。昔この辺りに遊びに来たことがあったけれどもうあまり覚えていないの。わからないことだらけだから色々と教えてね」
「荻野……けい……か?」
けーちゃんの顔が思い浮かんだ。
「どうかした?」
心配するように荻野は俺の顔を覗き込んだ。
「いや、ちょっと考え事をしてた。ごめん荻野さん」
「むーっ」
わざとらしくそんなことを言いながら、荻野は頬を膨らませた。
「どうかした?」
今度は俺が彼女に聞き返す。
「私、それあんまり好きじゃない」
「それって?」
「荻野さんっての」
「ああ。なるほど」
「京華でいいよ。そっちのほうがいい」
「わかったよ。ごめんな京華」
「うん。それでいい」
満足したように京華は頷き、「あなたは?」と俺に名乗るように促してきた。
「俺は藤沢凌だ」
「わかった。凌くんだね」
「呼び捨てでいいよ」
「じゃあお言葉に甘えて。改めてこれからよろしくね。凌」
俺は彼女の顔をまっすぐ見ることができなかった。
こんなバカ正直な言動で友達を作るっていうのが恥ずかしかったってのもあるけれど、本当の理由は綺麗な女性をまっすぐに見つめ続けられるほど俺の肝は座ってなかったってだけだった。
思い返すほどに恥ずかしい思い出だけれど、この時から俺の時間は再び動き出した。
止まってしまった夏の日々から、俺はようやく歩き始めた。
最初のコメントを投稿しよう!