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「賢子!」
元服もまだの童の頃、定頼とも名乗る前だった鬢頬結いの少年はある日、幼馴染みの藤原賢子の邸を訪ねた。当時の貴族の屋敷では主流の、築垣に花を咲かせた門前で庭先の梅の花枝を折り取る。そこに、持ってきた文をくるくると手早く括りつけ、妻戸口から姿を現した少女に戯れに投げかけた。
まだ額髪も短い薄紅の頬、柘榴の汗衫に切袴姿の賢子は、簀の子まで歩み出てそれを受け取り、大きな瞳をくるくると動かして彼を見返した。
「なあに?」
「開けてみな」
かさかさと賢子が文を開くと、中に走り書かれていたのは古歌が一首。
『筒井つの 井筒にかけし まろがたけ
過ぎにけらしな 妹見ざるまに』
この筒井筒の和歌というものは、伊勢物語にある幼馴染みの男女が大きくなって結ばれる筋書きの話に登場する。
幼い頃、ともに井戸の井筒と背比べをした私の背は、もう井筒を追い越してしまったようだ、あなたに会わないうちに――と、男から女へ、会いたいと求める恋心を乗せて歌った和歌。
つまり彼は実際に幼馴染みである賢子に対し、わざわざ花に添えた口説き文句を寄越してきたのである。
生真面目な賢子は頬を赤らめ、梅の枝を握りしめた。
「もうっ、悪ふざけはやめてっ」
「筒井筒ごっこ。面白いだろ?」
「こ、こういうことは、面白がってすることじゃないもんっ」
「返歌は?」
「へ? 返歌?」
「恋文には返歌がつきもの。さあさあ、早く早く」
「恋文って……じょ、冗談なんでしょっ」
「冗談じゃないって言ったら?」
「え……?」
「伊勢物語の女みたいに、『君ならずして かあぐべき』って答えてくれるのかな?」
「え、ええっ!?」
「なんだよ賢子、反応が悪いなぁ」
「そ、そんなこと、急に言われたって……」
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