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紅に背を向けたまま足を止めた蒼は、あからさまな溜め息を吐く。
「言いましたよね。静かにして下さい、って。君の声は、煩いんですよ──」
蒼が振り向いた、其の瞬間には──
「……ッ!?」
「──少し、黙っていてくれませんか」
泡沫のナイフを手にした蒼が、それを紅の頬に宛がっていた。
一瞬の出来事に声さえ出ない紅は、いつの間にか自分の隣に居る蒼へ視線だけを向けるのが精一杯で。
「治るとは分かっていても、顔を傷付けられるのは、嫌、ですよね?」
言って妖しく笑う蒼からは、泡沫の血の香りと、泡沫と同じ甘い香りが漂っていて。
──……気持ち悪い。
そんな思いに紅の躰が震えたの視て、蒼の口角が俄に吊り上がる。
「これは、君から泡沫様に返しておいて下さい」
静かに紅から離れた蒼は、冷たくなった彼女の手にナイフを握らせて、今度こそ部屋から出て行った。
微かに血が付いているそれは、紅も良く目にした事の有る品。
それが泡沫の頬に傷を付け、髪を切ってしまったのだという事は、教えられずとも理解った。
「泡沫……」
紅い、小さな唇から、小さな声が漏れる。
左手には、泡沫の手。
右手には、ナイフ。
切り付けられた様に、心が、痛い。
痛くて、苦しい。
「泡沫ぁ……」
大切な人が、目の前に倒れていても。
どうしたら良いのか分からない自分が、悔しかった。
涙ばかり流れて、手を握っている事しか出来ない。
芳しい血の香りと、甘い、香り。
複雑な気持ちを抱えて、紅は立ち上がる。
そして──
「──泡影……ッ!! 泡影はどこッ!?」
大嫌いな、彼の名前を、必死に叫んだ。
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