乙女と青年

1/1

84人が本棚に入れています
本棚に追加
/125ページ

乙女と青年

「──折角のお着物が台無しね」  泡沫との情事を終えた蒼が自室に向かって階段を下りていると、下から紅がやって来た。  彼女が足を止めた事に、蒼も何気なくそれに倣う。  蒼の首筋は血で汚れ、着流しと羽織の襟元には小さなどす黒い染みが付いている。  これでは血の匂いを撒き散らして歩いている様なものだ。  ヴァンパイアならば、視ずとも分かる。 「仕事の前に一体誰と遊んでいたの、……ッ!?」  最後まで言い終えないうちに、彼女は気付いた。  未だ口にした事は無いが、何度も感じた愛しいその香り。  可愛らしい顔を歪ませて蒼を睨み付ける紅に対して、蒼は口角を上げて答えた。 「泡沫様ですよ」 「……っ」 「別に、驚くような事じゃ無いでしょう」  蒼には、嫉妬を顕わにする紅が酷く滑稽で、理解し難く感じられて仕方がない。  恋だの愛だのと、慾とは異なる感情を前に出す女の心情が理解出来なかった。 「泡影が節度を弁えなかったので、僕がお相手したんですよ。それだけです」  泡沫に取っては必要な事だった。  吸血行為も、その後も。  けれどその事実は、紅にとっては聞きたくも無い話だ。 「なんで……なんでアンタなのっ!? 珀は? 珀はどうしたのよ!? アタシだって泡沫に会ったわ! でも、泡沫はそんな事……ひとつも……」 「まさか知らない、なんてことは無いですよね」 「アタシが何を知らないっていうの!?」 「泡沫様の血の意味です」  見下すような視線を送られ、紅は唇を咬む。  負けじと更に蒼を睨み上げても、作り笑顔で躱されてしまった。 「泡沫が混血なのはここのみんなが知ってる事でしょ。それ以外に何があるって言うの!?」 「あの方は、サキュバスとの混血です。要するに、女の君では泡沫様の役には立てない」  サキュバスとは稀少種族の女を示す名で、ヴァンパイアよりも下等種とされている。  ヴァンパイアとサキュバスの混血は、例え男の身であってもインキュバスの性質が受け継がれてしまう。  その為、泡沫は血液だけでなく快楽と精液をもその本能が求めてしまう。  女と関係するより、男と交わった方が確実に満たされると言う事だ。 「──ですが、泡沫様に媚び続ければ、君だっていつかは相手にして貰えるでしょう」  ゆっくりと階段を下り始めた蒼は、擦れ違い際に紅の耳元でそう呟いた。  たっぷりの厭味込めて。  厭味な笑みをその口元に浮かべて。  芳醇な血の香りが、紅を覆い尽くす。  彼の血を泡沫が口にしたと思うと、悔しさで胸が一杯になる。  どうして、自分を選んでくれないのか。  どうして、自分では駄目なのか。  紅とてサキュバスの事を知らない訳ではない。  サキュバスの血を引いていたとしても、泡沫は男だ。  泡沫を指名する女性客も大勢いる。  そんな彼が女の自分に欲情しない筈が無い。  紅はそう自分に言い聞かせて階段を駆け上がった──。
/125ページ

最初のコメントを投稿しよう!

84人が本棚に入れています
本棚に追加