霜柱

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 寝室からリビングまでの廊下をやっとの思いで歩いてきた。大分時間がかかった気がする。あんなに安らぐ空間だったのに、今では壁一面の大きな窓から降り注ぐ陽の光に照らし出されることを嫌悪している。陰に紛れている方が余程楽な気持ちになるのだ。  台所を覗くと、後ろ姿の(すみれ)が朝日に髪の毛を一本ずつ反射させて、卵焼きを作っていた。卵焼きは匡輔の何よりの好物だ。その神々しい空間で、結婚したばかりの頃から使われている雪平鍋からは味噌汁の出汁と長葱の香りが漂い、炊飯器からは白い湯気が勢いよく吹き出している。いつもと変わらない朝の台所を見て、自責の念が捲し立てられる。変わらないというのは残酷で、尊い。その輝きに、今の匡輔は圧倒される。 「ごめんな」  菫と目を合わせられず、その後ろ姿に力なくつぶやく。両肩にそっと手を置いた。菫に対する揺るぎない愛も、両手から零れ落ちるほどの感謝も感じている。だからこそ、家族が生きていくために自分ができる仕事をすぐにでも探し出したい。そのために、どうにもならない年齢という壁に対して何度も頭を下げる。しかし、それはどの会社においても、なかなか受け入れてもらえないものだった。結果として一歩も前に進むことができていない。それを努力と呼べるだろうか。心が不快に波立つ。朝日の溢れる光の中でも、不毛で単調な日々に焦り苛立つ、この心の拙さを恥じた。 「ううん、いいのよ。夫婦なんだもの」  菫の穏やかで小さな声が聞こえた。髪を束ねて露になった、後姿の頬の動きに微笑みの断片を感じ取る。清純な朝の台所は、いつだって全てを許し合える場所だった。いや、実際には匡輔の拙さを許してもらっているばかりだ。穏やかな懐に抱かれ、守られているのはいつも自分のほうだった。いたたまれなくなった匡輔はコップを掴んで、冷たい水を一杯、体に無理やり流し込んだ。食道から空っぽの胃までの道のりをその冷たさに感じ、目が覚めた。体を中心で支えているのは、守りたい、という鼓動だった。匡輔は家族の今日を守るために、ゆっくりと歩を進めて台所を出た。
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