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次の電車が入ってきた。また彼が叫んだ。コンタクトを落としました、と。電車から降りてくる人達は私達を避けた。遠巻きにするように。その雑踏の遠巻きの円の中で、私たちの捜索は続く。ホームのアナウンスが入る。また次の電車が来る。
「ごめんなさい」
私は言った。その草色のTシャツの男の人に向かって。
「きっと電車の中で落としたんです。見つからないです。ごめんなさい」
もうこれ以上は嫌だ。耐えられない。と思った。這いつくばるのをやめたかった。遠巻きに眺める群衆の真ん中で地面に這いつくばって必死にコンタクトを探す。その自分の姿がものすごく屈辱的に感じられた。私はこの状況をやめにしたい。この屈辱的な状況から脱出したい。今すぐに。そのためには、隣で探してくれているこの男の人に諦めることを伝えて、捜索を中断してもらわなければ。
「この辺には無いみたいですね」
その男の人は言った。言いつつ、まだ探している。探してくれている。
「ごめんなさい。もういいです。私目が見えなくて。近眼で。だからコンタクトが落ちていてもわからないの。諦めます。ごめんなさい」
「僕もコンタクトなんですよ。気持ちわかります」
「そうなんですね。私初めてのコンタクトなんです。一昨日買ったばっかりで。まだ慣れてなくて」
「この辺結構探しましたけど、無いですね。ハードって踏まれると割れちゃいますけど、割れてもカケラが残るんで。でもそれも見当たらないですね」
「無いですよね二つとも。どっちか一つでもあるとよかったんだけど」
「え、二つ?」
そこで初めてその人を見た。正面から見た。中腰になったその人。草色のTシャツ。Gパン。細い人だな、と思った。
「はい。二つ。右目と左目」
「えぇ? 二つ? 二つって、二つともですか?」
「はい。二つともです。気付いたら無かったの」
「眼鏡はありますか」
「それが」
眼鏡は置いてきた。昔の私からの決別だった。
「無いんですか」
「はい」
「困りましたね」
次の電車が来た。ようやく彼が腰を上げてくれたので、私も腰を上げた。彼がホームの奥の方へ歩いていく。私も彼の後を追う。私の右足。引き摺ってしまう。どうしても引き摺ってしまう。
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