歯医者

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歯医者

「チョコかと思ったら………、虫歯かよ」 俺は大口で洗面台の鏡をのぞきこみながら独りつぶやいた。 世間を賑わせるバレンタインのおかげで、俺の手元にもチョコレートが転がり込んできた。 とは言っても、職場の女子一同からの義理チョコだ。 女にも高級チョコにも興味のない俺にとってバレンタインはお返ししなきゃな、程度のイベントでしかない。 独り暮らしでちょうど食べるものもなくて朝食がわりにつまんでいたら、チョコが挟まったのか、どうも歯が痛い。 それで鏡を見ながら黒い部分をこすっていたわけだけど、虫歯なら落ちるわけがない。 「近くに歯医者あるのかなあ」 高木 タケル。 入社一年目のしがないサラリーマン。 就職をきっかけに実家を出て、全く知らない土地でひとり暮しをしている。 きっかけというよりは口実といったほうが正確だ。 俺は、義理の弟と越えるべきではない一線を越えてしまった。 俺と弟の恋愛は家族を巻き込み、結果俺は一人で家を出ることになった。 「もうこんな時間かよ」 俺は椅子にかけてあった安物のジャケットとカバンを乱暴につかむと、髪の寝ぐせもそのままで玄関を飛び出した。 毎日仕事に行っては誰もいないアパートに帰る生活を繰り返している。 一人気ままで楽なもんだけど、ずっとこんな人生なのかな、と思うことがある。 恋愛は、弟とのそれきりだけど、別に一人でいたくて生きてる訳じゃない。 いつか本当に思いあえる誰かを探してる。 駅に向かう途中で、ふと目の前に歯科医院の看板があることに気づいた。 毎日通っていたのにちっとも気がつかなかった。 俺はしげしげと看板をのぞきこんだ。 今日の午後も診察があって、しかも八時まで開いている。 「診察をご希望ですか?」 後ろから声がした。 中性的な澄んだ声でいて、言葉の端にどこか甘さを感じる話し方に俺の聴覚のすべてが奪われた。 思わず振り返った瞬間、俺は目の前の男に釘付けで表情ひとつ動かすことができなくなった。 一瞬で恋に落ちた。 その人は俺よりも少しだけ背が高く、柔らかい笑みを浮かべて立っている。 少し長めで肩にかかっている髪はサラサラと風になびき、日に透けるとチョコレートのような明るい茶色に見える。 瞳も日本人にしては明るすぎる茶色だ。 その美貌とは裏腹に気取った感じは全くなく、オフホワイトのトレーナーとデニムを軽く着こなし、掃除でもしていたのか、手には竹ぼうきとちり取りを持っている。 「あ、今朝虫歯を見つけて………」 俺は激しい鼓動に四苦八苦しつつも平静を装って答えた。 誰かに対してこんなにドキドキしたことなんてない。 それも初対面の相手に。 「そうですか。 今日の午後8時に急患扱いで診れますよ」 この人、歯医者なのか? 見た目はモデルとかにしか見えないけど。 けどとりあえず関係者みたいで親切だし、いいかもしれない。 そして何より、俺はこの人にまた会いたかった。 どんな人なのか知りたくて仕方がなくなっていた。 「お願いします。 高木タケルです」 俺は診察の予約を頼むと急いで駅に向かった。 ああ、8時になるのが待ち遠しくて今日は1日が長く感じられそうだ。
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