自分の感受性に水をやるのを怠ったがために枯れた

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自分の感受性に水をやるのを怠ったがために枯れた

今、その罪を償っている。 茨城のり子先生の「自分の感受性くらい」は若い頃から知っていた。 水やりを怠って、ぱさぱさに乾いた私の心を取り戻すために、 思い込みや妄想含め、自分自身に深くダイブすべく、日々書き連ねていこうと思う。 大人になるにつれ、誰かの求める何かになろうとしすぎて、ここ10年以上も来てしまった。 気づけば着たい服、観たい映画、読みたい本さえもわからなくなっていた。 自分の心に耳を塞ぎ、この10年余りの時間を通り過ぎてきた。 何もしなかったわけではない。 求められる何かを、求められるままにやってきただけなのだ。 そしてそれは私もそうすべきだと、既成の概念に自ら絡みに行った結果だった。 心に水をやるということは、最低限まず自分の心に耳を傾けることが何より大事なんではないか? パサパサになってはじめてそう思った。 というより、気づかされてしまう出来事があって心をこじ開けられたのです。 だから、耳を傾けるという習慣を取り戻すために、リハビリのように書いていこうと思う。 うーん・・・ そもそもリハビリとは、社会に適した生活の水準を達成するがために行うことで、 感受性の心の襞が繊細すぎて、社会に適合することが難しかった私が、耳を塞いで生きた時間から、本来の感受性を取り戻すために行うことは果たしてリハビリと呼べるのか? でも、蓋して誤魔化しても、それが習慣になって日常のルーティンを繰り返せるようになっても、蓋をしたものは、蓋をしたものでしかなかったことを認めざるを得ない。 適合せずとも、自分らしさを取り戻したい。 自分は自分でしかなく、自分で「これが世の中というものである」とインプットし縋りついたイメージは思いのほかかなり大雑把で、隙間が無限にあるのではなかろうか? だとすれば、どこかしら私のいられる場所もあるのかもしれない。 厭世的に見ることに疲れた。猜疑心が強く、人が怖いのにも関わらず寂しがりな私は、 全てに疲れて今はどうにでもなれと思う時間が少しずつ増えた。 様々なこだわりを恐る恐る手放そうとしている。 素直になんてすぐになれるはずもなく、ひたすら力なくゆるゆる歩き始めようと思い始めている。 でも寂しがりでよかったと思えるくらい、一周回って能天気にもなれつつあるのです。 よかったらおつきあいください。
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