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香りに誘われるままに足を動かす。どんどんと帰路からそれていくが、それでもかまわなかった。薄暗い道を歩き、人気のない場所に出る。そこは都会にあっては珍しく草木の生い茂る場所だった。太く立派な大木が幾つもそびえ立っている。どうやら懐かしい香りはこの大木が放っているようだ。楓はゆっくりと近づき、大木にそっと手をついて頬を寄せた。
サワッと大木が脈動する。水の流れる音、空気の結晶が浮かび上がって、大木が生きていることを耳に感じた。楓は目を閉じてその生命の音に聞き入る。なぜだか一筋の涙が零れ落ちた。
懐かしい息吹だ。命の鼓動だ。懐かしくて、こんなにも切ない。
楓はまるで母に縋りつく子供のように身体全体で大木にしがみついた。今まで感じたことがないほどに楽に呼吸ができる。でも涙が溢れて止まらなかった。その時、あたたかな温もりがそっと眦の涙を拭った。気配さえもなかった突然の出来事に楓はハッと目を開き振り返る。既に暗くなっている空と同化するように、闇に染まった男が立っていた。楓とは違う、スラリとしながらも筋肉のついた身体と雄々しく美しい面差し。一目でわかった。彼はアルファだ。
「……すまない。脅かすつもりはなかったんだが」
目を見開いて身体を強張らせている楓に男は伸ばしていた手を引っ込めた。おそらくは彼が楓の涙を拭ったのだろう。
「……いえ。お見苦しいところをお見せしました。では……」
いい大人が涙を流しているところを見られた羞恥で、楓は少し乱雑に目元を袖で拭い大木から身体を離した。早々に立ち去ろうと足を動かしたとき、グイッと右腕を取られる。力の強さに楓は思わず顔を顰めた。
「……なんでしょう? 放していただけませんか」
冷たい声音だ。敵意と不機嫌を隠そうともしない楓の声に男は動じた様子はなかった。
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