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ロンドンで10年近く続けてきた貿易の仕事は、腹心の男に託してきた。俺は、必要な資金源と、僅かな身の回り品をトランク1つに詰め込んで、アメリカ行きの汽船に乗ったのだ。
『――羨ましいわ』
少し間があってから、エミリアは呟いた。長い睫毛が憂いを帯びる。
『貴女は……ご旅行ですか』
良家の令嬢が、侍女の1人も伴わず単独行動するのは、かなり異常だ。しかし、乗船後の数日間、船内で見かけた彼女に、付き沿う従者の姿はなかった。
『表向きは』
微かに眉を潜めた横顔は、予想に反して凛とした気高さを取り戻していた。
『本当の所は、南部の農場主に売られるんですの』
『売られる? 穏やかじゃないな』
デッキに凭れ、彼女の顔を覗き込む。視線に気付いたように、こちらを見上げると、硬い眼差しでぎこちなく微笑んだ。
『……貴方も、私の噂はご存知でしょう? 異国の富豪に嫁ぐというのは、外聞が良いのです』
勿論、噂は、知っている。
およそ3ヶ月前、マーシャル伯爵家とバール伯爵家の婚約が決まった。当時、花婿はスペインにいたのだが、結婚式のために帰国することになった。ところが馬車がフランスとの国境に差し掛かった辺りで、盗賊の襲撃を受け、呆気なく落命してしまった。
それでも――それだけなら、彼女は悲劇の花嫁として同情されただろう。
噂好きの社交会は、どこからともなく彼女の過去を掘り返した。
実は今から4年前、10代半ばの彼女には、複数の縁談話が持ち上がっていた。美しく聡明で、家柄も申し分ない。社交会にデビューするや否や、両手に近い数の求婚が殺到したそうだ。
花婿候補達は、家柄や人柄、様々なふるいにかけられた挙げ句、シモンズ家とコーエン家が最終候補に残った。両家は奇しくも古くからのライバル同士で、そんな因縁もあったのだろう。両家の若者は、些細な口論がきっかけで決闘になり――どちらも還らぬ人になってしまった。
マーシャル家に非はなかったものの、周囲の配慮もあり、縁談の申し入れは引き潮の如く消えた。
そうして、ほとぼりが冷めたかと思われた4年後。再び花婿候補が、悲劇的な死を遂げたのだ。
「マーシャル伯爵の令嬢は、呪われている」――。
噂にならないはずがなかった。
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