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ベーカリーの仕事を終え、私のマンションまで着くと、時刻は二十二時近かった。
二月の風は冷たい。肩甲骨の辺りまで伸ばした髪が、冷気を含んで頬に貼りつく度に、鳥肌が立つ。
二十二歳の、二十二時の、二月。
特別でもなんでもない。夜はただ暗いし、街灯はただしらじらしい。
出入口のドアを押し開いて、階段で二階の自室へ向かう。
五つ並んだ同じ色のドアの、一番奥。トートバッグから鍵を取り出し、屋内でも白い自分の息を見る。
その向こうに、見慣れないものがあった。
頼りない屋内照明の中、薄暗い隅に、私では抱えきれなさそうなほどのサイズの、ほの黒い塊が置いてある。
私はしばらく、その物体を見ながらぼうっと立ちつくしていた。
やがて、塊が動いた。
丸まっていたシルエットがほどけ、手足と首があらわになる。
人間だ。
それも少年。
うずくまっていたのが立ち上がると、私よりも頭ひとつ分背が低い。肩まで伸ばした髪はやや女性的だったけれど、その細くも骨ばった体つきと精悍な顔は、間違いなく男性のものだった。
濃い茶褐色の髪。コートは着ておらず、いくら暖冬といってもいかにも寒そうな黒い長袖シャツに、色が濃過ぎて判然としないものの、恐らくは黒のジーンズ。靴は黒いスニーカーだ。ただ、顔や手の肌だけがうっすらと白い。
「怪しいものではないんですが、……いえ、怪しいですよね」
声変わりしたばかりのようなかすれた声で、少年が言った。
「まあ、それなりに」
「中学一年生なんです。補導されたくない」
「今出ていけば、特に問題にならないと思うけど」
外からは、静かすぎる夜の街をどこへ走って行くのか、パトカーと救急車の音が聞こえる。
「泊めてくれませんか。ここの部屋の人ですよね」
「そうだけど。どうしてうちに? 自分の家に帰りなさい」
またサイレンが鳴った。
私はため息をついて、言う。
「なにかあったのかな。パトカーが多いね。物騒だから、君も早く――」
「あれは、僕を捕まえに来たんですよ」
「あのね、マンションの廊下に忍びこんだくらいで」
「僕の母親を刺しました。だから帰れない。部屋に入れてください」
少年は後ろに回していた右手を差し出した。
その手のひらには、赤く濡れたナイフが握られていた。
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