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街の喧騒を抜け、住宅街に入る。木々の合間からは、わきあがるように蝉の声が響いている。乾いた風が肌の熱を幾分冷ます。まっすぐ延びる道を進むと、細い川が見える。音もなく川は静かに流れている。ふと顔を上げると、雲は刷毛で塗ったように高い空を淡くぼかしていた。小さな橋を渡り、道なりに歩いて行くと、実家が見えてきた。築20年以上経つけれど、父が折に触れ手を入れてきたせいか端正な表情を保ったままだ。
大山亜香里は、そんな実家を見ただけで安心感と喜びと哀しさが混じった複雑な思いに駆られた。
亜香里が実家に戻って来たのはおよそ一年ぶりになる。母親のケアのため大学を半年ほど休学していたことが思い出される。
玄関のチャイムを鳴らすと母の声が聞こえる。
「はい」
「亜香里」
「ちょっと待ってね」
ドアが開き、母が姿を現した。その顔には薄い笑いがあり、亜香里は少し安心する。母に生気が戻ったことを実感できたからだ。リビングに入り、荷物をソファーに置き横に座る。母が冷たいウーロン茶を出してくれた。
「亜香里のほうは変わりない?」
こちらを向いて静かに言う母の表情を見て涙が零れそうになる。
「うん。変わりないよ」
「そう。良かった」
「お母さんとお父さんも少しは落ち着いた?」
「なんとかね。前を向いて歩かないと亜香里に怒られちゃうしね…。だから頑張ってるわ」
自分に言い聞かせるように、言葉に力を込めている。そんな母を見ると、人間は流れるように生きるのが正しいのかもしれないなどと思う。いつも答えを知っているのは時間だけだ。
「そうよ。私にはお母さんとお父さんがまだまだ必要なんだから」
「そうよね。とにかく、ゆっくりしていってね」
「ありがとう。じゃあ、部屋に上がるね」
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