「貴方は金魚です」

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きっと、今夜もどしゃぶりの雨の中、通りの向こうの枯れた桜の木の下で、あの愛しい人は私を待ち続けているのでしょう。 「お願いですから、もう私を待つことはおやめ下さい。」 渡せなかった手紙にはそう書いてあります。 どんなに伝えても、訴えても、あの愛しい人の心に私の熱い想いは通じてしまうのです。 「貴方は、金魚みたいですね、儚くて、それでいてお美しい」 愛しい人はいつか、そんなことをおっしゃってくださいました。  ガラガラと戸を開けると、必ず金魚の貴方が出迎えてくれます。 玄関の小さな金魚鉢で今日も明日もいつまでも泳ぎ続けるだけの小さな魚。 貴方は自分のことを金魚だとお分かりですか? この金魚鉢にも、もう慣れた頃でしょうね。何の変哲も、特徴もない、外界を知らない貴方は、ただの金魚なのです。 私と同じですね。餌を食べ、糞をし、貴方は一人ぼっちのまま、口をパクパクと動かし、呼吸をしてそこで一生を終える宿命なのです。 それなのに何故そんな純粋な目をしてらっしゃるのですか?生命を感じる目をしている。そう、貴方の目は今にも私を見通してしまいそうなのです。 私の愛しい人の瞳に映った私の目に、よく似ている気が致します。  今年の夏祭りは盛り上がったようですね。ですが、私は体調を壊し、縁日に出かけることはできませんでした。 貴方をお祭りで買ってきたのは、私の息子と義母で、私ではありません。きっと楽しい金魚掬いだったことでしょう。 ベランダから見えた月は、おぼろげでいて儚く、吸い込まれるようでした。そんな月の下で、貴方は本能的に逃げることに必死だったのでしょう。 それとも捕まってもいいと思っていたのでしょうか。 今になってはどうでもいいことですね。貴方はただ生きていれば幸せなのでしょうから。 今日も明日もそういった時間の感覚さえ貴方にはないのです。 一分前も、十日後も、貴方にはないのです。未来の希望もないのかもしれません。 貴方を片手に、私の息子はリンゴ飴を美味しそうに食べたと、普段は笑顔をめったに見せない義母も、その日は喜んで語ってくれました。  貴方には名前がありませんね。貴方は金魚です。 息子は貴方のことを「金魚さん」と呼びます。 私にも名前がないのかもしれません。旦那様は私を「おまえ」としか呼びませんでした。 義母様は「みかげさん、みかげさん」と、私を執拗に呼びますけれど。
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