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大岩健治は目の前に座る宮前静香の一挙手一投足に気を巡らせていた。
静香も「そんなに睨まないで頂戴」と軽口を叩きながらも真剣だった。
(江戸)時代から続く老舗和食店の6代目の女将、この人に認められなければ俺の造った日本酒はお店に出して貰えない。美味しい日本酒を造りたいという俺の一番初めの関門だ。
「まだまだ若いけど、優しい味だね」
静香はテイスティングが終わるとそう告げた。
「じ、じゃあ」
「後で板長と話して段取りしておいて」
「あ、ありがとうございます」
最後は言葉にならず、俯いても涙が溢れ続けた。大学を卒業して蔵の仕事を始めて12年、やっと自分の酒が造り出せた。
「ところで健治、アンタいい人はいないのかい」
健治と呼ばれて、近所のおばさんと子供の関係にもどる。
「大卒以来、酒造りだけが恋人っす」
「そんなこと、威張ってんじゃないよ。アンタも身を固めて跡取りを作りな。いい酒造っても継いでくれる人が居なかったら、ご先祖様に申し訳がないよ」
いかにも永く商売をしてきた物言いだった。
「おばさん、俺には心に決めた人がいるん」
「知ったこっちゃないね。一週間後お見合いしな」
静香は被り気味に否定すると一冊の釣書を差し出した。
あんまり乗り気じゃないから、どう断ろうか。とりあえず釣書も見ないのは流石に無礼だろうと、釣書を開いた健治の顔が引きつった。
「お、おばさん、な、何をご存知で」
ずっと秘めていた健治の(想い人)がそこに居た。
「アンタが生まれた時からずっとご近所さんだ。オネショの数だってご存知ヨ」
こりゃ敵うわけがない。健治は天を仰いだ。
静香の段取りに諾々と従うだけだった。
「さて私はもう一人蹴っ飛ばして来なきゃいけないから、板長のところへ行きな」
やっと終わった。そう思って健治は立ち上がろうとした。
「ところで、アンタの酒はなんて銘だい」
「このか、にしようと思ってます。木に(風)と書いて」
「かー、暑いねぇ。せっかくの冷やが熱燗になっちまう」
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