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 三月。まだ空気は冷たいが、桜の蕾は膨らみ始め、草花が芽吹きはじめ、春が近いことを感じさせた。  坂本拓海は、誰もいない三年五組の教室の教壇に立っていた。  午前中に行われた卒業式の後、教室は生徒とその親たちで溢れていた。  最後のホームルームでは、坂本が話し始めると、突然涙を流し始める女子生徒がいた。すると他の女子生徒も泣き始めた。男子生徒にまで泣き出すものがいた。坂本まで涙がこみあげてきたが、そこは意地で踏みとどまることができ、笑顔でホームルームを終えることができた。  今年も進路がまだ未決定の生徒はいるものの受け持った三十四人の生徒を全員送り出すことができた。そのことに坂本は充実感を得ている。 社交辞令かもしれないが何人かの父母から感謝の言葉を貰うことができ、正面玄関前では何人もの生徒に一緒に写真を撮ってほしいとせがまれた。 「あっという間だったな…」  坂本は独り言を呟いた。教師になって十年以上経つ。これまで見送ってきた生徒の数は坂本自身にも正確にはわからない。しかし、顔を見れば名前ならば今でも言えるという自信はある。  長い教師生活の中でも今年のクラスは忘れられることはないと坂本は思っている。  今年のクラス、というよりは、今年のある生徒、というのが正しいのだが。  ふいに、懐のポケットに入れていた携帯電話が振動した。  取り出すとLINEのメッセージが届いていた。 『今から教室に行っても大丈夫ですか?』  そのメッセージを見て、坂本は軽く息をついた。 『大丈夫』と素っ気なく返信し、携帯電話を懐に閉まった。   坂本は目を閉じた。  そして首を斜め上に傾けて、大きく息を吐きだした。坂本の吐息が沈黙した教室の中に響いた。  その音が消えると、壁に掛けられた時計が時を刻む針の音だけが響く。その音がなければ時が止まっているのではないかと思うほど静かだった。  キュッ、キュッ  その沈黙を破るように坂本の耳に、もう一つの音が聞こえた。  廊下を誰かが歩く音だった。ゴム底の上履きが長尺シートでできた廊下を規則正しい音を立てている。 その音は三年五組の扉の前で止まった。扉の曇りガラスの向こうに女性らしき人影が見えた。    扉はゆっくりとスライドし、一人の女子生徒が入ってきた。  篠宮里香だった。
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