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「杏奈!」
私が洗面所で髪を拭いていると、走りに行っていたはずの翼が戻ってきた。
「あれ、走りに行ったんじゃないの?」
翼と会話するのにもうしこりはない。
いつもと変わらず馬鹿な話もできるし、自然に笑える。
「杏奈……記録会からなんかおかしくない?」
――翼には全部お見通しみたい。
「おかしいって何が?」
笑顔で答えたけど、翼は明らかに怒っていた。
「走りながら余計なこと考えてるでしょ? ……最近の走り方は杏奈の走り方じゃないよ。杏奈はもっと綺麗にスマートに走るんだ。私はそれに憧れて……」
「……うるさいっ!」
思わず叫んでしまった。
翼に怒鳴ったのは、はじめてかもしれない。
「翼は私より速いんだよ! 翼と私を一緒にするのはもうやめて!」
私は私を止められなかった。
翼は涙目になりながら後ずさりする。
「杏奈……」
「……翼に私の気持ちがわかる? 私は走ることだけは誰にも負けない……誇りだったんだよ。それを……まさか翼に抜かされるなんて。翼に……こんなに近くにいる人に」
翼が泣くのを我慢している姿を見ていると、私も泣きそうになった。
翼は黙って私をジッと見ていたけれど、ゆっくり口を開いた。
「……たった1回負けただけで、ウジウジしちゃってさ! そんなの杏奈らしくないよ! 私は杏奈に勝ったとき、嬉しかったよ。杏奈は私の目標だったんだから。……ううん、今でも私の目標だよ。杏奈のベストタイムを……私1回も超えられてないもん」
そこまで小さな涙声で言うと、
「杏奈は私の目標であり続けてよ!」
翼はそう叫んだ。
「おい、どうしたー?」
お父さんの声がする。
お父さんの間抜けな問いかけに少しほっとしたのもつかの間、
「なんでもない! 走ってくる!」
翼はそう叫んで、私の顔をもう一度にらみ、玄関に走って行ってしまった。
「翼!」
私の呼び止めに、翼が振り返ることはなかった。
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