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 気を悪くしていないだろうか。寛大な冗談に笑い返そうとして、しかし、交わりそうになる目線を思わず逸らしてしまう。頬にかかる髪をすくように乾の手が添えられ、隙間からキスが届いた。 「――滑らないように気をつけろよ。地元民に言うのもなんだけど」  どうしてもと引き止められることはなく、ほっと、心の中でため息を吐く。彼にだって、自分に今一番必要なのは休養だと、わかっているのだ。 「乾さんも気をつけて、出張」 「の前に電話するよ」  送り出すのはまだ早いと笑う乾に、今度こそ笑い返して、慧斗はテーブルのキーケースを拾い上げた。ダウンを羽織り、ジッパーを一番上まで上げれば、身支度は終わる。 「じゃ……おやすみなさい」 「うん、おやすみ」  軽く片手を挙げた乾に頷き返し、部屋を出た。  凍りついたコンクリートの廊下は、痛々しいほどの冷気を放っている。あたふたと階段を駆け下りる自分が振り切りたいのは、ぼんやりした気まずさだろう。言い訳し損なったのは、それがまるきり誤解ではなかったからか、誤解されてもいいと思ったからか。  駐輪スペースから見上げても、スチールのドアと玄関用のライトが等間隔に並んでいるのが見えるだけ。真っ黒い空から羽根のようにひらひらと舞い落ちてくるのは雪……みぞれは消えて、本格的な雪模様だ。     
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