5、キスミー

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 待ち合わせに早く来すぎて、大型ヴィジョンの一つを眺めていた。  知らない歌い手が、スクランブル交差点で愛を叫んでいる。  須美を含め、その待ち合わせスポットにいる何人もがなんとはなしに、それを見上げていた。中にはスーツや袴の子もいる。卒業とか入学とかそういう季節だ。この時期にバイトを探すとどこも寒くて忙しくて、しかしその分時給がよかったことを思い出す。季節は何度でも巡ってくる。  愛だの恋だの切ないだの。好きだの嫌いだのやっぱり好きだの。  やばいな、ちっとも好きな曲でも歌い手でもないのに意味が全部わかってしまう。その通りだよ、恋は大変疲れるし、面倒くさい。そして人をバカな人格にする。 「ラブソングの存在理由がわかった」とあの時ヒューゴは言った。いまさらだが須美にもその意味がわかる。つまり歌でも歌わないと、やっていられない。叫ばないと自分が壊れそうになる。 「おーい気づいて」  はっとする。目の焦点が合う。洗練された身なりの男が須美の前に立っていた。映像を見ていたはずが、何も目に入っていなかった。遅れて微笑むと、男が眼鏡も帽子もしていないことに気づいた。周りを見回したが、誰もせんせいに気づいている様子はなかった。  杉山さんの戦略で、ここ一年くらいでせんせいは一気に全国区になった。街で声をかけられることも多い。若いアイドルのように場が混乱するようなことはないが、須美はおおいに緊張する。せんせいはというと、そんなことを気にする様子はなく、おおっぴらに手をつなごうとしてくる始末だ。 「やばいですよ」  思わずけん制した。 「え、なんで? 僕ら付き合ってるのに何がやばいの?」  せんせいはにやにやして、須美の反応を楽しむように、手を離さない。 「あ、ほら、見て。そろそろ」  指さした先にせんせいのバンドが映し出された。くらくらするほどダンサブルなアシッドジャズだった。コアにもマスにもずしんとくる。キャッチーでありながら、そのあざとさも逆手にとったせんせいらしい楽曲だ。
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