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蜜より甘く蕩かせて BC87‐82
腐った魚の内臓と汚物が混じりあったような強烈な匂いが、あたり一面に立ちこめている。
少年は顔をしかめると、とっさに両手で鼻と口を覆った。むせかえるほど濃密な臭気を浴びて、口の中に酸っぱい液がこみ上げてくるが、足を止めることはできなかった。
カストルとポルクスの神殿を過ぎ、オリーブとイチヂクの樹が並ぶ通りを抜ける。中央広場にたどり着くと、白亜の階段は鈍色に染まっていた。
雨垂れのような音が聞こえる。
おびただしい数の生首が広場の演壇に並べられていた。切断面からは粘り気のある黒ずんだ液体が滴り落ちている。
少年は丸い瞳を大きく見開いて立ちつくしていた。短衣から剥き出しの腕には鳥肌が立ち、舌は口の中に貼りつく。喉はカラカラに渇いて、大きく吸いこんだ息を吐きだすこともできない。
声が出ない。
「……っ……、……ッ」
目を覚ますと薄汚れた低い天井が見えた。
少年ガイウスは短く荒い息を吐いて、煤けて茶色くなった毛布の端を握りしめる。全身から冷たい汗が噴き出している。
――紀元前八十七年ローマ。
ポントゥス王ミトリダテスがローマの属州を不法に占拠した。
ミトリダテス討伐の総司令官には将軍スッラが選ばれたが、この人選に異を唱える者があった。民衆派を代表する英雄、老将軍マリウスである。しかし、マリウスは智将スッラの返り討ちに遭い、アフリカへ逃げ出した。
スッラが発つとすぐに、その年の執政官キンナは老マリウスを首都ローマへ呼び戻した。マリウスは奴隷の集団を使って、五日間で一千人を越えるローマの有力者を処刑してまわった。スッラを支持したというのが処刑の理由だった。
あの日。
少年ガイウスが母の言いつけを破って、一人で中央広場へ足を踏み入れた日。マリウスの命令で殺された人々の血まみれの生首を目にした日。あれから幾日が経っただろう。
ガイウスは意識を失ってその場に倒れ、気がついた時は暗く湿った地下室の埃っぽい寝台の上に寝かされていた。
奴隷商人によって男娼として売りつけられていたと知ったが、抵抗できなかった。身に着けているのは着古した膝丈の短衣と、首からさげた子ども用の金の守護石だけ。
自分は奴隷なんかじゃない。由緒正しい血統貴族の家に生まれた跡継ぎ息子だと訴えようとしたが、口を開いても喉からはかすれた息が漏れるばかりだった。
中央広場の大量の生首を目撃してから、ガイウスは声を失っていた。
ガイウスが連れてこられた娼館を取り仕切っている館主は解放奴隷の男で、この男の以前の主は執政官キンナだった。本来、元老院議員には伝統的な農場経営しか認められていないため、元奴隷の使用人などを使って貿易業や不動産投資などで財を成す者が多い。
館主は客への服従や性的な奉仕を叩きこもうとして容赦なく鞭をふるったが、ガイウスは決して膝を折ることはなかった。肉が裂けるまで鞭打たれても頑なに拒絶する少年を前に、館主もキンナも困惑した。食事も日に一度の薄い粥だけとなって、息苦しい地下室に捨て置かれた。
全身につけられた傷は熱を帯びて疼くように痛む。ガイウスは起き上がることもままならなくなっていた。
意識は朦朧としていたが、石段を降りる足音と灯りが近づいてくるのに気づいた。
「これが例の少年だ」
扉が開かれ、かすかな外気が入ってきた。
キンナのあとから入ってきたのは一見して身なりの良い青年だったが、こんな娼館に来る客は知れている。年端も行かない子どもを痛めつけることに倒錯的な悦びを覚える、卑しい成金連中と決まっている。
「見ての通り、容姿は悪くない。痩せ気味で肉づきはいま一つだが、顔立ちは整っているし、なにより印象的な瞳をしているだろう。なかなかの上物だと思ったから四〇〇セステルティウスも払ったんだ。しかし、どうにも反抗的でね。これほど扱いにくい奴隷は初めてだ」
自分は奴隷でも男娼でもない。ガイウスは寝台から体を起こして二人の男を睨みつけるが、キンナは肩をすくめるだけだった。
「どうも、私のやり方がまずかったらしい。まだ若い君なら、初めての客にどうかと思ってね。好きにしてくれ」
「壊してしまってもいい、と」
青年は低い声で尋ねた。
「かまわんよ。もっと痛い目に遭えば、これも少しは素直になるかもしれん。ああ、この子は口がきけないから悲鳴も漏れない。ラテン語はわかるようだから問題ないがね」
キンナが扉を閉めて出て行くと、青年はゆっくりとガイウスに近づいてきた。
「まだほんの子どもじゃないか。かわいそうに。いったい、どうしてこんなところに。いや、口がきけないのか」
寝台の上のガイウスは思わず後ずさるが、背中がすぐに壁に当たる。青年は背が高く、腕や肩も厚みがあって筋肉も引き締まっている。ガイウスとは体格差がありすぎて、とても敵わない。力ずくで襲われたら、喉笛に噛みつくか目を潰すしかないだろう。
背中を丸めて身構えるガイウスを見て、青年は苦笑した。
「なにもしないよ。私は子どもを買いにきたわけじゃない」
キンナの連れてきた客の言葉など信じられるわけがなかった。用もなく娼館にやって来る間抜けな男はいない。
「信じてもらえないのも仕方ない。では、客として一つだけもらっておこう」
青年が一歩を踏み出して顔をよせてきたかと思うと、頬にそっと口づけられた。やわらかなぬくもりは一瞬で、すぐに離れていった。あとにはかすかな香料の匂いが残る。
ほんのわずかの間だったが、ガイウスは瞬き一つできずに固まっていた。
「さて、私の用事はこれで済んだ。あとはしばらく、ここで休ませてもらうよ」
青年はそう言うと、部屋に一つきりの椅子に深くもたれかかって目を閉じた。このまま眠ってしまうつもりらしい。
ガイウスは信じられない思いで風変わりな客を見つめていた。薄汚れた少年など興味もないというのか。もしかしたら、最高権力者であるキンナに弱みでも握られて、仕方なく連れて来られただけかもしれない。
ガイウスはゆっくりと寝台を降りた。少し動くだけで痛めつけられた全身が悲鳴をあげる。そろりそろりと足を動かして進む。そっと肩を叩くと青年が目を開けた。空いた寝台を指し示す。
「譲ってくれるというのかい?」
おずおずと頷くが、青年は笑って取り合わなかった。
「君のような子どもから、一つしかない寝台を取り上げるなんてできないよ。私はここで十分だ」
青年は再び目を閉じた。しばらくして規則的な寝息が聞こえてきたので、ガイウスは寝台に戻った。穏やかな表情で眠る男の横顔を見つめる。
キンナとはどういう関係なのだろう。若くして成り上がった商人と思っていたが、地方の名士なのか、流暢なラテン語を話す外国人か、ひとかどの武人かもしれない。
世の中は金と権力で成り立っている。ガイウスの家は古く由緒はあっても、金にも権力にも縁がない。なんの力もない子どものガイウスは、なにが起きても泣き寝入りするしかない。
体を起こしているだけで視界が揺れる。張りつめていた緊張の糸がゆるむと、くずおれるように敷布の上に倒れこんだ。まぶたが重い。背中の傷はじくじくと痛んだが、それ以上に全身がだるい。いつしか引きずりこまれるように眠りに落ちていた。
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