蜜より甘く蕩かせて  BC87‐82

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 ガイウスが目覚めると、キンナと客の青年が話しこんでいた。 「どうかね。あれも少しはお客様のお役に立てたかな」  キンナが鼻を鳴らして笑うと、青年はしばらく考えてから答えた。 「閣下はこれからも、この子に客を取らせるおつもりですか」 「これだけの素材だから使い道はいくらでもある。なんなら、よそに売り払ってもいい。見た目さえよければ、どんな反抗的な奴隷でもかまわんという御仁は少なくない」 「私に、譲ってはいただけませんか」 「おや。君はこういう子が好みだったのか。まあいいだろう。で、いくらで購うつもりかね」 「一〇〇、いや、一二〇万セステルティウスで。できれば、このまま連れて帰りたいのですが」  ガイウスは青年の提案に耳を疑った。軽い口づけを一つしただけの男が、売値の三千倍で自分を引き取るという。一般的な奴隷なら六千人分に当たる破格の値である。 「うむ、よかろう」  大股で近づいてきたキンナはガイウスの腕を荒々しくつかむと、部屋の外へ引っ張っていった。 「こっちへ来い。また随分と高く買われたようだぞ、小僧」  キンナは歯茎を剥き出しにして黄色い歯を見せると、声を上げて笑った。 「今日からこの男がおまえのご主人様だ」 「マルクス・リキニウス・クラッススだ。よろしく」 「……!」  クラッススと言えば、ローマで知らぬ者のない大富豪である。  属州ヒスパニアへ派遣されれば、現地の銀山を買い占める。ローマで火事が起これば、火を消す前に土地を安値で買い叩く。あこぎな手口で大儲けをしていると評判の成金一家だ。  ガイウスに手を差し伸べてきた男はまだ若い。一門の跡継ぎかもしれない。  貴族の名家で生まれ育った自分が、奴隷の男娼として大富豪の酔狂で買われていく。いまの身分を思い知らされるようだった。  それでも、ガイウスはクラッススと名乗る青年の手を取っていた。この館から出られるならば、なんでもよかった。  石段を上がると、湿って淀んでいた空気の匂いが薄れていく。傷だらけの全身は悲鳴をあげるように痛んだが、一刻も早く黴臭い地下室から離れたくて、ガイウスは歯を食いしばって歩いた。  外はひどく埃っぽかった。朝日の眩しさに目が開けていられない。  娼館に閉じこめられてから、何日が経っているのだろう。体はすっかり萎えていた。よろめくガイウスに気づいて、先を行くクラッススは立ち止まって、歩調を合わせた。 「顔色が良くないな。馬車を待たせている。エスクィリーナ門までは歩けるか」  歓楽街の細道を進む。給水場を流れる水の音が、たえまなく響いている。手桶を下げた奴隷とすれ違うと、肥溜めの饐えた匂いが鼻をついた。道の端ではボロをまとった老人が身動き一つせずにうずくまっている。  高層住宅(インスラ)の合間から抜けるように青い空が覗く。顔を上げると眩暈がして、ガイウスはこめかみを押さえた。  クラッススに連れられて乗りこんだ馬車はすぐに走り出した。ティヴルティーナ街道を東へ進み、ローマから離れていく。ガイウスの家も遠ざかっていく。  男娼として捕らえられ、死にたくなるほどの屈辱を与えられたが、覚悟のない自分は舌を噛み切って命を絶つこともできなかった。男たちに散々に辱められた体で、あの家へ帰るわけにはいかない。 『よくお聞き、ガイウス。あなたは特別な子どもなの』  母の膝の上に乗せられ、ものごころつく前から毎日のように聞かされてきた。 『あなたに流れているのは、ただの貴族の血筋などではない。ずっとずっと家系を遡れば、女神ヴェヌスにまでたどり着く。あなたにはヴェヌスの血が流れているのよ。だから、祖先に恥じない名誉ある生き方をしなくてはいけないの』  あなたならそれができるわ。言い含める母の声がいまも耳に残っている。  後援者(クリエンテス)の尊敬を集める父のような人になりなさい、いえ、父よりも大きな立派な人物になりなさい。ことあるごとに諭されてきた。  家名を汚すことはできない。もう、家には二度と帰れない。ガイウスはきつく唇を噛みしめた。  タイヤは派手な音を立てながら、石畳の上を転がっていた。馬車の振動が全身につけられた傷に響く。  街路樹の緑は鮮やかな日差しに照らされ、乾いた地面に濃い影を作っている。立ち並ぶ墓碑の間を抜けると、見渡す限り一面の果物畑が広がっていた。  すれ違う荷馬車から砂埃が舞いあがる。ティヴルの町の標識手前で、馬車は支線へ入っていった。 「ちょっと止まってくれ」  クラッススは御者に声をかけて馬車を降りると、手近なリンゴの実にかぶりついた。 「今年も出来が良いみたいだな」  満足そうに頷くと、果肉を咀嚼して芯を放り投げ、手の甲で口もとを拭う。もう一つ大きな赤い実をもいで、馬車で待っていたガイウスに手渡した。ガイウスはごくりと唾を飲みこむ。 「遠慮することはない。このあたりはもう私の土地だ」  こらえきれなかった。一口齧ると、乾いた喉に甘くみずみずしい果汁が染みわたる。夢中で貪っていた。口の周りからあふれる汁を乱暴に拭い、最後まで味わった。
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