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「マルクス様」
アッピア街道へ合流する手前の支線で、背嚢を抱えて農民に扮したディフィルスと出くわした。
「どうしたんだ。父上と兄上は。アレクシスは無事なのか」
「お待ちください。どうか、これをご覧ください」
ディフィルスが差し出した布には、べっとりと血のりがついていた。
「これは……」
広げられたのは、見覚えのある短衣だった。
「それから、これもです」
ディフィルスが背嚢から出してきたのは、父と兄のはめていた金鎖、それにクラッススがアレクシスへ贈った金の腕輪だった。
「旦那様とプブリウス様の名前が、マリウス将軍の処刑者名簿に載っていたのです。パラティヌスの本宅にまで押しかけられ、旦那様をかばったアレクシスが一番に斬りつけられました。旦那様とプブリウス様は首を切り取られて、中央広場の演壇へと運ばれていきました。財産はすべて没収です。金目のものは残らず持っていかれました。権利書も貴金属もなにもかも。家屋敷ごと全部です。私も体一つで放り出され、これだけしか持ち出せませんでした」
「どうして、どうしてアレクシスがローマにいたんだ」
明日には帰ると伝えていた。今日はティヴルの別荘でクラッススの帰りを待っていたはずだ。
「プブリウス様がアレクシスを、執政官のキンナ閣下に売りつけようとしていました。ギリシャ贔屓の閣下ならば、ギリシャの少年奴隷を高く買ってくれるだろう。執政官と誼を結んでおけば、内乱に巻きこまれてもなんとかなるはずだと。それも、間に合いませんでしたが」
「そんな……」
兄プブリウスは弟クラッススにアレクシスを与えると言ったはずだが、それを覆して執政官キンナに譲るつもりだったらしい。
そのうえ、兄と父とアレクシスの三人がいっぺんに失われてしまったなんて。
信じたくない。とても信じられない。ディフィルスはひどいことを言う。こんなのは嘘だ。手の込んだ芝居だ。そう言って詰め寄りたいのに、それもできない。
クラッススはもう立っていられなかった。その場に膝をついて舗装された地面を拳で殴りつける。関節に固いものが当たる。皮膚が裂けて血が滲み出てきても、痛みを感じられなかった。
「マルクス様、ここにいては危ない。まずはティヴルへ戻りましょう」
「いや、ローマへ行く」
自分の目で確かめるまでは信じられない。きっと悪い夢を見ているだけだ。だから、痛みも感じないのだ。
「なにを言うのですか。お二人が亡くなられた今、この家の当主はマルクス様です。ローマのパラティヌスのお屋敷へはもう入れません。ティブルへ戻るしかないんです」
折れるほど強い力でディフィルスに両手を握り締められる。
「おまえの、見間違いではないんだな」
「三人とも、私の目の前で、斬り殺されました」
クラッススは天を仰いだ。しゃがみこんだまま嗚咽を漏らす新当主を前に、ディフィルスは語気を強めた。
「マルクス様。あなたがしっかりしないでどうするのですか。ローマの不動産は押さえられてしまいましたが、まだあなた様にはなすべきことがある。それでもクラッスス家の家長ですか」
声をひそめて叱咤するディフィルスの言葉が、耳へ入ってこない。クラッススはただ頭を振るだけだった。
それにしても、とディフィルスが首を傾げた。
「なぜ、マルクス様のお名前だけ、マリウス将軍の名簿に載っていなかったのでしょう」
「キンナには貸しがある」
クラッススは呻くように漏らした。
「先月の宴の時に、ギリシャ談義で盛り上がったんだ。後日、ギリシャの骨董品一式を贈ったら大層感激していた。喜びのあまり、自分が経営する娼館の少年までよこしてくれたほどだ」
同好の士だと思われていると知って複雑な気持ちだったが、執政官相手に誤解を解くわけにもいかず、そのまま話を合わせていた。この話は兄プブリウスも知っていたはずだ。だからこそ、キンナにアレクシスを献上しようと思いついたのだろう。
だが、すべてが遅すぎた。
「ローマを出ましょう、マルクス様」
「いや」
「わかっているのですか。いま、民衆派に目をつけられたら終わりです」
「下手に動くのも危ないだろう。時機を見てからキンナに接触してみよう。事態が落ち着いたら、おまえはまたローマに戻ってくれ。情報収集を頼む」
「承知しました」
馬の上から月を見上げる。月光にかざされたクラッススの腕には、留め金にひびの入った金の腕輪がはめられていた。
吹きつける夜風が冷たい。外套の裾をかきあわせる。
ぬくもりが恋しかった。今日の朝までそばにいた、あのぬくもりが。アレクシスは永遠に失われてしまった。
クラッススの目からは涙があふれて止まらない。
紀元前八十七年末。
青年マルクス・リキニウス・クラッススが、少年ガイウス・ユリウス・カエサルと運命の出会いを果たす、半月前の出来事だった。
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