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馬車は再び田園地帯を走り出した。しばらく行くと高い石壁をめぐらせた広大な屋敷が見えてきた。
「私の別荘だ。楽にしていていい」
緩やかに傾斜した坂を登りきると、丘の上には白い壁で覆われた豪奢な別荘が建っていた。
クラッススのあとに続いて玄関をくぐる。中では美しい列柱廊に囲まれた見事な庭園が広がっていた。夾竹桃やアカンサス、月桂樹にプラタナスが生い茂り、奥にはブドウの蔓棚が見える。
「どうしたんだ、この首のうしろは。血がにじんでいるじゃないか。すぐに手当てをさせよう。おい、ディフィルス。ディフィルスはいるか」
主の呼びかけに応えて、秘書と思しき解放奴隷の男が垂れ下がったカーテンをめくって飛びこんできた。
「お帰りなさいませ、旦那様。おや、この子はどうしたのですか」
「キンナのところから引き取ってきた。この屋敷に置くつもりだが、ひどい怪我をしている。すぐに診てやってほしい」
「承知しました」
ガイウスは肩をつかまれて反射的に身を硬くしたが、ディフィルスは手馴れた様子で短衣の裾をめくって確かめていく。
「ここと、ここと、ああ、ここもですね。ここは火傷になっている。これはひどい。ただいま、薬を持って参ります」
ディフィルスが出て行くと、入れ替わりに腰の曲がった女奴隷が銀のコップの載った盆を運んできた。
「お水をお持ちしました、どうぞ」
「フォローニア、助かるよ」
手渡されたコップを受け取ったガイウスは一気に飲み干した。冷たい水が喉を潤していく。
「まあ、旦那様。この坊やはいったい、どうなさったのですか」
「今日からここに置くことになった。ひどい怪我をしていて、口もきけないんだ。忙しいところすまないが、よく面倒をみてやってほしい」
「左様でございますか。このフォローニアにお任せくださいまし」
老女奴隷はにこやかに答えると、空になったコップを受け取って下がった。
ガイウスは改めて屋敷の中を見渡した。舶来物の彫刻や大理石の胸像、古美術品と思われる壷が並べられ、奥の廊下には一族に縁のある者と思しき肖像画の数々がかけられている。
庭園からは乾いた風が通り抜けていく。ローマとティヴルはそれほど離れていないが、煤けて埃っぽいローマの空気とは明らかに違う。しばらくして、いくつもの薬壷を手にしたディフィルスが戻ってきた。
「切り傷、刺し傷にはこの白い軟膏が効きますが、化膿している部分には、こちらの緑の膏薬のほうがいいでしょう。少々沁みるかもしれませんが」
ディフィルスが薬壷を広げていると、外から別の奴隷が駆けこんできた。
「旦那様方、お話の最中に申し訳ございません。ディフィルス様に、オスティアから急ぎの使者が来ています。頼んでいた荷のことで話があるとのことです」
若い奴隷が息せききって伝えると、クラッススは大きく頷いて言った。
「わかった。行っておいで。この子のことは引き受けよう。なに、傷の手当くらいは、私にも心得がある」
一礼すると、ディフィルスと奴隷が出て行った。
クラッススはガイウスの短衣の肩を抜いて背中の傷を目にすると大きく息を飲んだ。赤や青紫に変色した痣や無数の鞭傷が一面に広がっている。化膿しかかった傷口からは緑色の膿のようなものまで滲んでいる。
「これは、ひどい……なんとむごいことを。キンナのやつ」
クラッススは信じられない、と繰り返しつぶやいた。、薬壷の一つを手に取り、指先にたっぷりと軟膏を掬った。
「沁みるだろうが、こらえるんだよ」
傷口に薬を擦りこまれると、ガイウスは大きく身震いした。背中を大きくそらせて顎をつきだし、声にならない悲鳴をあげた。
「……ッ!」
ガイウスの背中を押さえていたクラッススが、不思議そうに首を傾げる。
「ここも血が出ているな。他にも怪我があるのか」
膝裏を伝う赤黒い筋に気づいて顔を近づけてくる。ガイウスは身を硬くして抗った。
「怪我を見せてくれないことには手当てもできないよ。いい子だから、じっとしていてくれ」
クラッススはそう言うと、麻の腰巻をめくって最奥の傷口をあらわにした。
「なんてことを……」
力ずくで辱められた場所からは、一筋の線のように乾いた血糊がこびりついている。羞恥で深く俯いたガイウスは、顔色を変えたクラッススからきつく抱きしめられていた。
「かわいそうに。これでは馬車は辛かっただろう。酷なことをした。いままで、よくこらえてきたな」
涙ぐんで声を詰まらせるクラッススを突き放すこともできず、ガイウスは顔を背けて唇を噛んだ。
どうして、この男が泣くのだろう。キンナの娼館に閉じこめられていたのだから、店に出す前の男娼としてどんな扱いを受けていたかくらい、想像がつくはずだ。この大富豪はよほどの世間知らずか、おめでたい人間なのか。
クラッススに泣かれるのは我慢できなかった。同情されるなんて、惨めな現実を突きつけられるようでたまらない。
「乱暴なことはしないよ。傷の手当をするだけだ。こういう傷口は悪いものが入って、もっとひどくなることがある。このままにしておいてはいけない」
クラッススは手当てを終えると、ガイウスの頭をそっと撫でた。
「年は幾つだ。十二か十三か、そのくらいだろう」
問われるままに小さく頷くと、クラッススは厚い手のひらでガイウスの両手を包みこんだ。
「もう大丈夫だ。ここでゆっくりと体を休めなさい。なにも心配はいらない」
部屋には大きな寝台が用意されていた。ガイウスがふらつく体を横たえると、すぐに毛布が掛けられた。
短く浅い眠りの間に嫌な夢を見た。
気がつけば一人、ガイウスは湖で溺れていた。息が苦しい。必死にもがいて手足をばたつかせたが、空をつかむだけだった。
「……ぅ、……っ、ぁ、ぁ……ッ」
薄暗い部屋で目を覚ますと、クラッススの心配そうな顔が見えた。
「怖い夢でも見ていたのか。もう安心していい。おまえはずっと、ここにいていいんだ」
穏やかな眼差しでじっと見つめられるのが落ち着かない。そっと顔をそらした。
全身が汗ばんで気持ち悪い。体が重い。顔が火照って、頭が割れるように痛む。背中と尻の傷がひどく疼く。
最後に体を拭ったのはいつだったかと考えて、ガイウスは眉をしかめた。
陽はじきに落ちようとしている。クラッススはガイウスの額に手を当てた。
「熱もあるようだ。ディフィルスが調合した薬湯がある。少し苦いけど飲みなさい」
コップを受け取って飲み干した。勢い余ってむせかえると、ゆっくりと背中をさすられた。荒い息をついていると、女奴隷のフォローニアが湯気の立つ粥を運んできた。
「食欲もないだろうが、なにか口にしたほうがいい。スープはどうだ。果物のほうがいいか」
「旦那様、この子にはその前に着替えが必要でございます。まずは体をきれいにしませんと」
お湯を含んだ白い布で汗ばんだ肌を拭われて、生成りの短衣と新しい腰巻を渡される。ガイウスは促されるままに着替えると、あたたかい粥のお椀を受け取った。
「子どもは遠慮することなどない。まして、おまえは怪我人だ。ゆっくり養生しないといけない」
ガイウスはお椀を手にしたまま、目を伏せる。
「口がきけないのは不便だな。気が咎めるというなら、早く傷を治すことだ。元気になってから、しっかりと仕えておくれ」
いまの自分は金持ちに哀れまれて、気まぐれな好意で生かされている。情けないほどちっぽけな存在だった。かといって、キンナのもとで自決する勇気もなかった。
汚れてしまった身では、二度と家へ帰れない。いまさら本当の名前など言えない。生き残ってしまった以上、このままクラッスス家の使用人として生きていくしかない。
塩気のある粥が口の中でほろほろと溶けてゆく。涙は出なかった。ゆっくりと咀嚼するのを手近な椅子に腰掛けたクラッススが目を細めて眺めている。
ガイウスは匙を持った右手でそっと胸を押さえた。短衣の布ごしに形を確かめるようにして、首から下げているヴェヌス女神をかたどった守護石を固く握りしめた。
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