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牛が草を食んでいる。
顔のまわりにハエがたかっているが、牛は億劫そうに尻尾を一振りするだけで、黙々と足元の牧草を食べ続けている。
空はどこまでも青く、高いところを流れる雲は白くたなびいている。目を細めれば、思い思いに散らばるヤギと羊とロバの群れが遠くに見える。
ゆるやかな斜面に座って足を投げ出していたガイウスは、大きく伸びをしてあくびを漏らした。
クラッススの別荘へ着いてから三日三晩、高熱が続いた。
水や薬を飲ませてもらい、始終、人の気配を感じていたが、よく覚えていない。膿みの出ていた傷口にうっすらとかさぶたができ、全身についた痣の色が薄くなる頃には屋敷の中を歩きまわれるほど回復していた。
フォローニアのあとをついてまわり、牛の世話を手伝ったり、畑仕事を手伝ったり、軽石でモザイクタイルを磨いたりと屋敷中の雑用をこなしている。
ガイウスが中央広場で倒れ、キンナの営む娼館に捕らわれている間に、老将軍マリウスは天寿を全うしていた。
かわってローマの最高権力者となったキンナはミトリダテス討伐へ向かったスッラを国家の敵と宣言して、新たに兵士を募って東方へ差し向けた。ローマは民衆派の執政官キンナと元老院派の将軍スッラの対立から起こった内乱に揺れ動いていた。
ガイウスの家は、ローマの下町の中心部スブッラに位置している。朝から晩まで響く工房の槌音や商売の掛け声、市民たちの必死の請願といった喧騒が懐かしい。
両親と姉と妹、それに家の使用人である奴隷たちの顔を思い出す。おそらく、あの混乱の中で死んだものと思われているだろう。仕方がない。跡継ぎ息子としての自分の人生は終わってしまった。もう、あの人たちのもとには戻れない。
「あぶないっ」
「……?」
フォローニアの声で我に返ったものの、間に合わなかった。ガイウスの短衣の裾には生暖かい牛糞が染みついていた。生成りの布地に茶色いシミが広がっていく。
「しゃあないわ。すぐ着替えな、な。今日洗うたものは干したばかりで、まだ乾いとらんし」
屋敷に戻って、しばらく長持の中の衣装をひっくり返していたが、ガイウスの足首まで届くほど長い短衣しかなかった。
「これも大きゅうてブカブカ。難儀やねえ」
ガイウスが小さく身震いしてくしゃみを漏らす。
「これで、どうやろか」
フォローニアから渡された短衣は着丈はぴったりだったが、長い袖の部分には飾り紐がつき、洒落た刺繍がほどこされている。女物のようだった。
「ちょうどいいみたいやな。今日は冷えてるし、こっちでよさそうや。具合が良うないなら、中で休んでなあかん。まだ病みあがりやで。アタシのほうが旦那様に叱られてまうわ」
ガイウスは首を横に振った。体はすっかりよくなっている。じっとしていろと言われるほうが苦痛なくらいだ。
「ホンマにいいの? 無理はあかんよ?」
なんでもない、という風にガイウスは何度も頷く。
「なら、厩へ行って、桶で水を運んどくれ」
ガイウスは大きく頷くと、弾かれたように外へ向かって駆け出した。
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