蜜より甘く蕩かせて  BC87‐82

5/16
前へ
/24ページ
次へ
 ティヴルの別荘の厩には、ひときわ目立つ馬がいる。  脚が人間そっくりで、蹄が指のように割れている。澄み切った瞳は思慮深げであり、堂々とした態度もまた人間のようだった。屋敷の者たちからはエクウスと呼ばれ、主であるクラッスス専用の馬として丁寧に扱われている。非常に気位が高く、クラッスス以外の者には乗りこなせない。ガイウスはエクウスを見るのが好きだった。  馬は賢い。  乗り手の技術が拙いと、わざと落馬させようとして意地悪を仕掛けてきたりもするが、愛情をこめて大切に扱ってやれば首をすり寄せて喜び、従順によく懐く。  初めてガイウスがこの厩を訪れた時、エクウスは歯をむき出しにして笑ってみせた。知らないものの匂いを確かめる時に見せる警戒の表情だ。以来、毎日訪れて世話をするガイウスを覚えたようで、素直に身を預けるようになった。  ガイウスが懐から出したリンゴを差し出すと、エクウスはたちまちのうちに噛み砕いて飲みこんでしまった。さらにねだるように鼻をすりよせてくる。肩をすくめて笑うと、大きな鼻息が吹きかけられた。顔を避けるようにしてガイウスが背中を預ける。  エクウスのぬくもりが直に伝わってくる。規則的な鼓動と熱くなめらかな肌に触れていたくて、両腕をまわして抱きつく。ガイウスは厩の匂いを大きく吸いこんでから、桶を手に駆け出していた。  長い裾を肩までまくりあげて水を汲み、井戸と厩を何度も往復する。近道をしようとすれば急勾配で、手のひらが真っ赤になるほどの重労働だが苦にはならなかった。  ガイウスが水汲みを終えて馬小屋の柵によりかかっていると、背後からつぶやくような声が聞こえた。 「アレクシス……」  振り返ると目を丸くしたクラッススが立ちつくしている。ガイウスの視線に気づくと、我に返ったように小さく頭を振った。 「いや、なんでもない。エクウスは気が強くて扱いにくいのに、手入れをよく知っているな。馬が好きなのか」  ガイウスは上目遣いで頷く。 「これに乗ってみるか。いや、おまえの怪我のほうが大丈夫だったらの話だが」  クラッススの提案にガイウスは目を瞬かせて、大きく頷いた。  馬は大好きだ。ローマにいた頃から乗馬にはぞっこんで、誰よりも早くから乗りこなしていた。 「大変です、旦那様っ!」  屋敷のほうから、血相を変えたディフィルスが坂道を転げるように駆けよってくる。厩まで着くと、肩で荒い息をつきながら早口でまくしたてた。 「執政官(コンスル)が、キンナが、借金帳消しの法律を通してしまいました」 「なんだって」  クラッススは大きく目を見開いた。 「たった今、急使が来ました。ローマはもう大変な騒ぎになっているようです。借金で首が回らなくなっている連中は舞い上がってるようですが、そんなことをすれば誰も金を貸さなくなる」  一時的な救済にはなるかもしれないが、経済の循環を無視した法は必ず行き詰る。貸し手がいなくなって困るのは借りる側であり、結果的には誰のためにもならない。 「まさか、そこまで愚かだったとはな。そんな法案はただの人気取りにすぎない。キンナの支配も長くはないだろうが、しかし」 「そうですね。ローマの経済はめちゃくちゃになってしまう」  膝に手をついて天を仰いでいたディフィルスは、初めて傍に立っていたガイウスに気がついた。 「こうして改めて見ると、よく似ていますね」 「ああ」 「でも、あの子はもういないのですよ」 「わかっているよ」  クラッススは苦いものを噛み潰したような顔で目を伏せた。  誰のことを言っているのだろう。ガイウスは訝しんだが二人とも答えてはくれない。声を失った体では、それ以上問うこともできない。  吝嗇で非情で冷酷な大富豪というのがクラッスス家に対する世間の評判だったが、現在の当主は少なくともこの別荘の者たちからは慕われているようだった。  使用人や奴隷を家畜のように扱う主人が少なくないのに、クラッススはどんな身分の相手にも分け隔てなく公平に接しているように見える。  寛容でやさしいと感じる一方、変に気を使われているというか、壁のようなものを感じることが多い。ガイウスに対しても、ありえないほどの大金で買い上げたものの、時折、雑用を持ちかけるくらいで、なんら変わりない。なにを考えて引き取ろうと思ったのかまるでわからないし、訊ねることもできない。 「ディフィルス。部屋でいくつか手紙をしたためてくる。おまえに使いを頼みたいので、馬を用意してくれ」 「かしこまりました」  クラッススは踵を返すと、急いで屋敷へ引き返していった。ガイウスは長い裾を腕まくりして、再び厩の掃除に戻る。すぐそばで、一頭の黒馬を選び出したディフィルスが小さくため息をついた。 「そうやって甲斐甲斐しく馬の世話をしていると本当によく似ている。おまえは案外拾いものだったかもしれないな」  振り返ると、黒馬の背を撫でながら、独り言のようにつぶやいている。 「おまえがここに来る前、家を継がれたばかりの旦那様はこの一ヶ月というものずっと塞ぎこんでいた。先代である父上様と兄上様をマリウス将軍に殺されて、かわいがっていた小姓まで巻き添えで殺されて、すっかり気力を失っていた」  その小姓というのがアレクシスという名前なのだろうか。そんなにも自分と似ているのか。ガイウスはそっとうつむいて拳を握り締めた。 「いまのローマはまだまだ危険だ。ローマから近いこの別荘では、旦那様だっていつ命を狙われてもおかしくない。国外へ出るようにどれだけお勧めしても、ここを動かないと言い張っておられる」  情勢は二転三転している。民衆派が政界を席巻している現在、元老院派と目されている大富豪クラッスス家の立場は非常に危うい。ディフィルスがクラッススに再三忠告しているのは、ガイウスも耳にしていた。 「まだ、信じたくないのだろう。あれからたったの一ヶ月しか経っていない。なあ、旦那様の寝台の脇の腕輪を見たか。留め金の壊れた金の腕輪があるんだが」  ガイウスは首を横に振った。 「あの腕輪は先代様と兄上様と一緒に、巻き添えで殺された小姓のものだ。三人とも、私の目の前でマリウス将軍の手の者に斬りつけられた。どうすることもできなかった。目の前にいる人を失うのはたまらないな。もう、見たくないものだ」  ディフィルスは胃の底から搾り出すような声で呻いた。黒馬が高い声で嘶く。  運よく生きながらえたとはいえ、けして安穏としていられる状況ではない。  ガイウスの背筋に冷たいものが走り、小さく身震いする。鼻先を押しつけてきたエクウスを抱きよせる。熱く躍動する肌に触れ、整えたばかりの毛並みをそっと撫で上げた。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

299人が本棚に入れています
本棚に追加