蜜より甘く蕩かせて  BC87‐82

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 食堂から薄明かりが漏れている。中を覗きこむと、クラッススが一人で酒を煽っていた。 「どうした、おまえも眠れないのか」  燭台の炎が揺れている。チーズとナッツが載った皿と一緒に、小ビンと琥珀色の飲み物の入ったグラスが並んでいる。 「飲んでみるか」  差し出されたグラスからは独特の甘い香りが漂う。ガイウスが首を横に振ると、クラッススは手にしたグラスを炎に掲げて見せた。 「蜂蜜酒(アクア・ムルサ)に香料を混ぜたものだ。こんなものを飲んでいるのは、ブドウも作れないくらい寒い土地の蛮族だけだと、ディフィルスには笑われる。でも、葡萄酒もいいが、私はこれがやめられないんだ」  ゆっくりとグラスを傾けながら、力なく笑った。 「いまさらだとは思うが、私の家のことは知っていたか」  ガイウスが小さく頷くと、クラッススはグラスの蜂蜜酒(アクア・ムルサ)を一気に飲み干した。 「そうか。おまえのような子どもにまで知られているとはな。どうせろくな噂ではあるまい」  クラッススは手ずから注ぎ足したが、グラスに半分ほど入ったところでビンの中身がなくなった。 「おや、もう空か。まだ飲み足りないのに」  ガイウスは咎めるように見つめ返すが、クラッススは笑って取り合わなかった。だいぶ聞こし召している様子だ。 「戸棚の一番下にまだあるはずだ。持ってきてくれ」  ガイウスは立ち上がった。奥の戸棚を覗くと、オリーブオイルの壷の裏に隠されるように未開封の小ぶりのビンが置いてあった。灯りに近づけて中を確かめると、琥珀色の液体が見えた。  ガイウスはしばらくためらってから、グラスに軽く一杯分だけ注ぎ、汲み置きの水で割った。  クラッススは葡萄酒も蜂蜜酒(アクア・ムルサ)も薄めずに生のままで飲むのを好むが、今夜の様子ではさらに酒を勧める気にはなれなかった。ビンは戸棚の奥に戻した。  クラッススは手元のグラスを両手で握り締めたまま、深く俯いていた。 「あれからまだ一ヶ月しか経っていないんだな」  持っていたグラスを呷ると、続けて独り言のようにつぶやいた。 「マリウスの大虐殺だ。おまえも知っているか?」  ガイウスはおそるおそる頷いた。 「この家の主人だった私の父も兄も、マリウスの恨みを買って殺された。たまたま、キンナと(よしみ)のあった私だけが命拾いしたが、ローマ市内の家屋敷と不動産や貴金属の類は全部没収された。情けない話だ。三男坊の私が家を継いだとはいえ、本当に不甲斐ない。いまだって自分の命惜しさに、キンナのような男に頭を下げるしか能がないのだからな」  やはりそうか、とガイウスは目を閉じた。  あの日、娼館へ客として訪れたのも、キンナへの追従だったと思えば納得がいく。買い上げたはずのガイウスを寝台に呼ばないのも道理だ。クラッススはガイウスのような少年には興味はないのだろう。      「骨董品も美術品も宝石も貴重な書物も、本宅にあったものすべてがなくなった。特に執着しているつもりもなかったが、持っていたものを取り上げられるというのは理不尽でやるせないものだ。金なんて虚しいな。でも、生きていくためには金は必要だ。私には父や兄のような商才もない。商売のことは父の片腕であったディフィルスに任せるしかない。私にできることなんてなにもない」  クラッススはどこか遠くを眺めるようにうそぶいた。 「どうも、すっかり酔いがまわったようだ。よかったら、そっちはおまえが飲みなさい。こんな夜は一杯引っ掛けてぐっすり寝てしまうのがいい」  ガイウスは葡萄酒も飲めるほうではなかったが、言われるままにグラスの蜂蜜酒(アクア・ムルサ)に口をつけた。  熱くて喉が焼けつくようだった。なにを混ぜてあるのか、薬草の香りがきつい。甘みは感じるが、とにかく刺激が強すぎて味はよくわからない。こんなものが好きで、薄めずに飲んでいるクラッススが信じられない。一口二口と苦い薬を舐める心地で、やっとのことでグラスの中身を飲み干した。 「やれやれ、明日はまたフォローニアに叱られてしまうな」  散らかったままの食卓を横目にクラッススは肩をすくめて笑ったが、ガイウスはそれどころではなかった。  見る間に顔が火照っていく。心臓が音を立てて早鐘を打ち、体の中から得体の知れない熱が疼きだす。全身に熱い血が駆け巡って、全力疾走した時のように呼吸が苦しくなる。 「……ッ!」  ガイウスは卓上に突っ伏した。こらえてもこらえきれない熱がこみあげてくる。奥歯を噛みしめて耐えていた。 「どうした?」  異変に気づいたクラッススが顔を覗きこむが、ガイウスにはなにも答えられない。 「おい、大丈夫か。気分が悪いのか。このまま、寝台に運ぶぞ」  ガイウスを背負うと、寝ている他の奴隷たちを起こさないようにそっと歩き出した。一介の使用人である自分が、一家の主人であるクラッススに運ばれるわけにはいかないと頭の中では思うものの、体はとても言うことをきかない。  いったい、どうなってしまったのか。  落ちないように、クラッススの背中にしがみついているのがやっとだった。
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