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蜜より甘い君の肌 BC87
クラッスス家は、ローマ市内でも評判の家族仲の良い一家として知られている。
騎士階級の出身で、祖父や父は元老院議員を務めた。そのうえ、共和政ローマの最高指導者である執政官職も経験している。莫大な資産を有していながら、一家の子どもたちは小さな家で育てられ、成人した後もしばしば食卓をともにしていると言われていた。
「兄上! どちらにいらっしゃるのですか」
一家の三男坊である青年、マルクス・リキニウス・クラッススはティヴルの別荘に着くと、さっそく大理石の並ぶ列柱廊を歩きだした。
夏の暑さは和らいだものの、真昼の日差しは緑の庭園へまぶしくさしこんでいる。クラッススは長兄のいそうな場所を一つずつ確かめながら、モザイクタイルの床を歩いていた。
奥の寝室の扉が半開きになっているのが見える。うたた寝でもしているのかと思って、迷わず中へ踏みこんだ。
「探しましたよ、兄上」
窓を閉めきった薄暗い部屋の中、黒い人影が蠢く。寝台が軋む音と、肌を打つ音が響いている。
「あ、あ、あァ……ッ、あン……」
ひときわ大きな嬌声が上がる。
クラッススの長兄プブリウスは、戸口に立つ弟の姿を認めると、口の端を小さく歪めた。
「兄上? あの、なにをしているのですか」
間の抜けた問いかけに、ことを終えた兄はくつくつと忍び笑いを漏らした。
「なんだ、いつから見ていたんだ」
寝台の上で白い背中を丸めているのは、見たことのない少年奴隷だった。
「兄上、その子はいったい」
「ああ、父上が借財の肩にもらってきたんだ。悪くはないが、私はやっぱり胸と尻の大きいほうが好みだ」
兄が無造作に髪をかきあげると、クラッススの背後から、解放奴隷であるディフィルスが揉み手をしながら近づいてきた。
「でしたら、わたくしがそちらを扱う娼館へ交渉しに参りましょう。これほど器量の良い子なら高値で売れると思いますよ」
「そうだな。おまえに頼むよ」
二人は笑って頷きあった。クラッススが寝台の上の少年を見ると、汗ばんで上気していた顔はすっかり青ざめ、怯えたように目が泳いでいる。
「待ってください、兄上」
「どうした。これが気に入ったのか。おまえになら譲ってやってもいいぞ」
「え」
裸の兄は振り返ると、弟の顔を見つめて言った。
「では、八百セステルティウスでどうだい」
言葉を失う弟を前に、兄は声をあげて笑い出した。
「冗談だよ。かわいい弟相手に、こすっからい商売などするものか。おまえにやるよ。なかなか使えるけど、これにはまりすぎるんじゃないぞ」
思いがけず、少年奴隷を譲り受けてしまった青年クラッススは、目を白黒させたまま頷くしかなかった。
心やさしかったすぐ上の兄ルキウスは、二年前の同盟者戦役で戦死してしまった。父や長兄プブリウス、筆頭家令のディフィルスといった家の者たちは政治や経済、特に商売に精通していて、大国ローマのあらゆる権力を手にしている。
クラッスス家は財界の黒幕であり、彼らが通った後は雑草も残らないと言われていた。
父は属州総督としてヒスパニアへ赴任すると、地元の銀山を買い占めて莫大な利益を手にした。ローマ市内で火事が起これば、火を消すより早くクラッススの手の者が現場の土地を買い叩きに飛んでくる。口さがない市民の間では、そんな噂が広まっている。
属州民からは不正徴税で訴えられ、家付きの農場奴隷からは暗い目を向けられる。市民からは羨望と嫉妬と侮蔑をぶつけられる大富豪クラッスス家の繁栄は、一家の拝金主義の賜物といえた。
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