第一話:奇妙な店『曰く堂』

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第一話:奇妙な店『曰く堂』

『いわく付きの物、売ります。買います。曰く堂』  こんな言葉が自分の目に飛び込んできた時、人はどう思うのだろうか。誰かの悪ふざけ? 馬鹿馬鹿しいと一蹴するだろうか。  私はまず、自分がひどく疲れているのだろうと思った。連日の残業……この日も夜の十一時を回っていた。会社からの帰宅途中、最寄駅を目指す道すがら横断歩道で信号を待っていると、数多くあるネオン看板の中からその看板を見つけた。目を擦り、改めて見ても一言一句間違ってはいない。確かにその看板は存在しているようだ。 (いわく付きの物を売り買いだって?)  現在はそんなものにまで価値があるのか。果たして商売が成り立つのか。売る方は願ってもないだろうが、いわく付きだと言われて買う人間なんかいるものなのだろうか。ここまで考えて、こんなわけのわからない看板に少しでも好奇心を揺るがされている自分に驚く。馬鹿な。  今日こそは早く帰宅しなければと思っていた。連日の残業でいくつかの家事が保留中になっている。そして今夜こそ、息子と話をしなければ。  信号が赤から青に変わり、横断歩道に人がなだれ込む。信号待ちは時に余計なことを考えさせるのだと、一度はこの好奇心を振り切ったものの、二つ目の看板を目にした時には、振り切ることができなかった。  雨が降り出していた。横断歩道を渡りきる間に雨脚が強くなるのがわかったので、商店街のアーケードまで足早に移動した。少し走った程度なのにひどく息が乱れる。やはり疲れているのか。運動不足がたたったのかもしれない……そう思い、息が整うまで休んでいると、私の目にまた奇妙な文字が飛び込んできた。  『曰く堂』こっち→  白い紙に黒い墨で殴り書きされているただの張り紙だったが、一つ目のネオン看板を見ている私にとって、不思議な魔力を持っているように思えた。その張り紙は店と店との間から伸びる細い路地裏に張り付いていて、こっちと書かれた矢印の方向を見ると確かに店の扉らしきものが見える。 (あそこが『曰く堂』か…)  場所を確認して、その後私はどうする気なのだろうか。今日は早く家に帰らなければならない。溜まった洗濯物を洗い、散らかったゴミを片付け……そして、部屋から一歩も外に出ようとしない息子と、今夜こそは話をしなければならないのだ。 (息が整ったら私は、駅へ向かって歩くのだ)  寄り道などしている暇は無い。しかし駅へ向かい出すはずの私の足は、何故か細い路地へと一歩を踏み出していた――
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