2.咲良

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 この日は一日中天気が良かった。  前髪を上げてむき出しになった額に、汗がじっとりと滲む。ファンデが崩れちゃうなと思いながら、手の甲で乱暴に拭った。 「あっつ。ねー、授業さぼってカフェ行かない?」  ねっとりとした声が耳にまとわりついてくる。隣の席に座っている同じ学科の子。彼女は露出した足を投げ出して座っており、剥げてきた手のネイルをしきりに気にしていた。 「んー、やめとく。単位やばいし」 「咲良なら余裕じゃん? がり勉だもん」  小首を傾げて笑う彼女に、私は「うぜー」と笑い返した。割と本気。こういう子たちの相手をするのは嫌いだった。中身のない会話を延々と繰り返すだけで、よく飽きずにいられるものだ。 「もー咲良付き合い悪! あ、サキ一緒に行こーよ。カナコも」 彼女はすぐさま別の子たちに声をかけ、了承をもらうと楽しそうに席を立った。私は密かに胸を撫で下ろす。彼女がいなくなるなら、いつもより授業に集中できるだろう。  あっという間に私はお役御免だ。彼女みたいに『友達』が多い子は、私の代わりなんてたくさんいるのだろう。スマホで連絡先を交換すれば、みんな彼女の『友達』だ。 「あ、そうだ咲良!」  教室から出て行ったと思われた彼女が、小走りでこちらに戻ってくる。引きつりそうになる表情を愛想笑いでコーティングした。 「なに?」  彼女はぐっとこちらに顔を寄せた。甘ったるい香水の匂いに吐き気がする。 「代返、よろしくね」  無邪気な内緒話のように囁くと、今度こそ彼女は走り去った。数人の甲高い声が教室を出て遠ざかっていく。あんなに能天気になれたら最早幸せなのだろうと、ぼんやりと思った。  世の中は面倒なことで溢れている。人付き合いも、授業も、メイクも、おしゃれも。何もかも面倒。でもそれを全て受け入れるのが当然だと私は思っている。面倒が一切無い、綺麗で美しい世界なんて存在するはずがないのだから。  その時教室のドアが開く音がした。教授が足音高く入室してくる。いよいよ授業が始まるようだ。  私は体中から絞り出すようなため息をついた。額に浮かんだ汗をもう一度拭う。暑い。授業を抜け出したあの子たちのことが、今になって少しだけ羨ましくなった。 「……好きなだけ、カフェの新作でも楽しんで来ればいいよ」  恨みがましく呟いた声は、教授の点呼とセミの声にかき消される。  私は自分の名前が呼ばれたときだけ返事をした。
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