2人が本棚に入れています
本棚に追加
「ノワール」の明かりは消えていた。
大学生のときによく行った喫茶店。最近はネットでの評判もいいらしく、休みの日は待たなければ席に着くこともできないらしい。
以前はほんの数人、常連がいるだけの寂しい喫茶店だったのに。
社会人になって二年と少し、その間「ノワール」に入ったのは数回だ。
暗くなった店内。ぴかぴかのガラスに自分の姿が映っている。
その姿を見ながら、かつての空間を思い出す。
私は四百五十円のブレンドコーヒーを頼む。そして、いつもと同じ本を読む。それが私の「ノワール」での過ごし方。
煙草を吸いながら新聞を読んでいたおじいさん、スマホばっかりの男子、ずっと窓の外を眺めていたおばさん、自作の小説を手直ししていた男の人、そして機械的にコーヒーを淹れるマスター。これに私を加えた人たちが「ノワール」の世界を作り上げていた。
あそこにいたのは「誰か」じゃない。ただの「人」だ。
世界を作り上げる一部としてのみ存在するだけの「人」。その個性や内側に秘めた思いなんて関係なく、ただそこに存在するだけ。
それが許されていたようなあの「ノワール」の空間は、とても居心地がよかった。
しかし、いつからか「ノワール」は変わり始めた。
小説を書いていた男の人が来なくなり、バイトの女の子も辞めた。マスターは人間味を帯び、スマホ男子も来なくなった。
「ノワール」のメニューと客が増え始めた頃、おばさんはあまり窓の外を眺めなくなった。マスターの奥さんが「ノワール」で働き始め、紅茶がメニューに加わると、新聞を読んでいたおじいさんは煙草を吸わなくなった。
そして私は社会人になり「ノワール」へ行かなくなった。
それでも――私の鞄の中にはいつも読んでいたあの本が入っている。
視線を落とすと、泥汚れの白い筋がついたパンプス。
周りに誰もいないことを確認して、私は小さく舌打ちをした。
最初のコメントを投稿しよう!