保健室

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******  午後から休校になったことを知らぬまま眠りについていた凜一が目を覚ました時、保健室の中は薄暗くなっていた。 (やば……寝すぎた?)  起き上がり時計を見ると、ここに来てから一時間たっていた。 (なんで本井(もとい)先生起こしてくれなかったんだろ。まだ戻ってきてないのかな)  校医が戻ってない事を不審に思いつつもベッドから立ち上がる。  朝の名残りか、こめかみを刃物で突き刺すような頭の痛みを感じた。  全身を覆う倦怠感。  関節も痛い気がする。  風邪をひいてしまったのかと思ったが、熱っぽくはないし寒気もない。 だるい。それだけ。 「早く帰ろう」  静かすぎる部屋が寂しくて、ぼそっと独り言を呟く。  凜一の少し掠れた声が響き、逆に心細さを増した。  そして思う。  保健室って地味に怖い、と。  はやる気持ちで引き戸を開けようと手をかけた時、違和感に気付いた。  どこからか漂うアンモニア臭。  科学の授業で嗅いだ、あの強烈な匂い。  思わず、手で鼻と口を覆う。  それは鼻を覆っても目に染みるほどで、凜一は慌てて窓に駆け寄った。  出入り口から離れるとアンモニアの匂いは薄れる。  入ってきた時にはなかったはずの刺激臭。  誰かが薬品をこぼしたのだろうか?  そんな疑問を抱きつつ、麻痺した鼻のため新鮮な空気を求めて窓を開けようとした。  しかし…… 「なに……これ……」  窓の鍵部分が針金のようなもので固定され溶接されていた。  とてもじゃないが素手で取り外せる代物ではない。  凜一はぞっとした。  自分が保健室に来た時、部屋には誰もいなかった。  ということは、寝ている間に誰かがこんなことをしたのだということ。  誰が?  なんのために?  混乱する頭で室内を見回す。  出入り口に近づきたくない。  でも保健室から出たい。今すぐにでも。  凜一は校医の机に近づき、引き出しを開けてみた。  中にはハサミやペン、消しゴムなどの筆記用具やなにかの資料、それにガーゼや包帯、マスクなどがある。  凜一はマスクを三枚取りだすと、重ねたままつけた。  気休めだったが、ないよりはマシだと思いたい。  意識すれば意識するほど匂いが増す気がした。  目覚めた時は気付かなかったのに。  深呼吸をした後、意を決して戸に近づく。  開けようとしたが……戸が重い。  なにかが寄りかかっているかのような手重さ。  押して、引いて。  とても埒があかないと感じた凜一は、思い切って扉に体当たりした。  ドラマみたいにかっこよく戸が開くのを想像していたのだが、現実はうまくいかない。  戸はびくともせず、ぶつけた右肩が傷んだ。  横に引くと、今度は抵抗なく開いた。 「うっ……」  三枚分のマスクが全く意味をなさない程の臭気。  マスクの上から鼻を手で覆い隠し、匂いの元を確認した。  目に飛び込んだのは目が覚めるほどの赤。  そして目を閉じて廊下に横たわる校医、本井の姿だった。  血だまりで赤く染まった白衣。  右手にはプリントを裁断する時に使うプリントカッターを持っている。  いや、それよりも凜一が衝撃を受けたのは、本井の両足。  左右の長さがあきらかに違った。  右足は足首から先が、左足は膝から下がなかった。  凜一は後ずさり、後ろに倒れた。  逃げ出したいのに足に力が入らない。 「あ……ああ…… なんで……」  なんで、なんで、なんで。  頭の中では同じ言葉がぐるぐると回る。  プリントカッターの刃の部分にはべったりと血がついていた。 (まさか、あれで?)  震えて身動きできない凜一が見つめる中、本井の瞼がゆっくりと持ちあがる。  左肩を下にした状態で倒れていた本井は、凜一と目が合うとにっこりと微笑んだ。 「お、起き、たのね。よ……よかった」  生きてることに驚いた凜一は、目を見開いた。  助けなくちゃ、そう思うのに体は全く動かない。 「あ、あなた……二年の、子、よね? ちょっと……手伝って、もらえる?」  凜一は自分が何を言われたか一瞬わからなかった。 (手伝う? この状況でなにを?) 本井は続ける。 「こ、これ。本当は、この、手も、両方……切り、落としたいの」 「……え?」 「だ、だから、お願い。こ、これで……」  本井は右手に抱えていたプリントカッターを、力なく凜一に差し出そうとした。  血の気が引き、生気を感じさせない顔を微笑ませてまで。  この表情には見覚えがあった。  数時間前、体育館で見た向井校長と同じ表情。  次の瞬間、凛一は自身の喉から空気のような音が漏れていることに気付いた。  呼吸がうまくできなくて息苦しい。  慌ててマスクをはぎ取り、鼻で、口で大きく息を吸い込んだ。  しかし息苦しさは増すばかり。 「む、無理、です! ぼ、僕にはできないっ」  気が付けば凜一は泣きながら、首を横に振っていた。  体は恐怖で凍り付き、逃げ出すことも、助けることもできない。  子供みたいに大粒の涙をこぼし、下唇を噛んだ。  本井は困ったような顔をした後、ふっと微笑む。 「そうよね。こ、これは先生の……役目、だったわ」 「本井……先生?」  本井は廊下にプリントカッターを置くと、右手で刃を持ち上げ、僅かに残った力で自らの左手を台の上に滑り込ませた。 「先生! や、やめっ……」  しかし……  目の前で起こる惨劇を見ないよう眼を閉じた凜一の耳に、想像したような音は聞こえない。  恐る恐る目を開けると、プリントカッターを手にしたまま横たわる本井の姿があった。  刃を握っていた右手はだらんと伸び、台の上には切断されるかけた左手が。  咄嗟に凜一は床を這い、本井の元に近づいた。  切り落とされた右足、左足を見ないようにしながら。  そしてプリントカッターを奪い取ると、遠くに向かって投げた。  忌まわしいものを遠ざけるように。  目を開いたままの本井の鼻、口元に手を置く。  息をしている様子はない。  胸に耳を置き心臓の音を確認したが、なんの音もしなかった。  凜一は冷たく濡れた自身の頬を乱暴に拭う。  何故、なにもできなかったのか。  震えて、怯えて……動けなかった。  自分が素早く行動できていれば、もっと早く目覚めていれば本井も助かったのではないか。  ひとしきり泣いた凜一の目は赤く腫れあがり、瞼は重い。。  あんなに動かなかった体の主導権も戻ったようで、凛一はふらつきながら立ち上がった。  先程まで自分が寝ていたベッドに近づき、シーツをはぎ取ると、本井の体を覆い隠す。  その一瞬のタイミングで、血の匂いを消してしまう程のアンモニアの匂いがどこからきたものか凜一は理解した。  本井の下半身には失禁した跡があったから。  痛みのせいなのか。  それとも……  再び涙が浮かびかけた凜一は、乱暴に目をこすると保健室を後にした。  職員室にいるであろう職員を捕まえて、本井のことを報告するために。  ほんの一時間程寝ただけなのに、校内は暗い。  常に誰かの気配を感じるにぎやかな校内を支配する静寂。  それは凛一に異世界にいるような錯覚を与えた。  何故人の気配がしないのか?  生徒たちは、教員たちはどこに行ってしまったのか?  同じ言葉が頭の中で繰り返される。 昨日の三苫から始まり、向井校長、本井と三人もの教員による自死を目撃した衝撃は、凛一の精神を鋭く消耗させていた。  どうして? なんで?   繰り返し沸き上がる疑問に心が支配されてはいたが、先ほどまでの頭痛はもうない。  しかしその事に凛一が気が付くのは、もっと後の事だった。
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