調理実習室の悪夢

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 食事はすべてレトルトでいい。  冷凍食品の進化は、最早、人類の進化と同一だとすら思う。  三限目からの調理実習を前に、凜一はそんなことを考えていた。  そろそろ教室を移動しなくてはいけないとわかっているけど、できればこのままエスケープしたい。  しかし根が真面目な凜一にそんなことができるはずもなく、渋々重い腰を上げる。  クラスの大半は既に家庭科実習室に移動しており、残っていたのは、机に突っ伏して寝ている少女、藤木可絵(ふじきかえ)と、さぼる気満々でスマートフォンをいじっている海野航太(うみのこうた)、そして調理実習を大の苦手とする少年、最上凜一(もがみりんいち)の三人だけだ。  椅子から立ち上がった凜一に気づき、航太が顔を上げる。 「りんいっちゃん、行く?」  さぼる気満々だった航太は意外そうな顔で聞いた。 「僕だってそりゃ……行きたくないよ」 「じゃあ一緒にさぼったらいいじゃーん」  悪魔のささやきに惹かれそうになるが、すぐに振り払う。 「だめだよ。そんなことしてばれたら母さんがなんていうか……」  凜一は女手一つで自分を私立の高校に行かせてくれた母のことを思いだし、再度深いため息を吐いた。  凜一の家庭の状況を理解する航太は、納得したように何度も深く頷く。 「そっか。そうだよなー。俺もマミタン泣かせたくないわ。うん、わかった。俺も行くとすっか。偉いっしょ」 「人の母親をマミタンとか言うなよ。それに偉いじゃなくて、当たり前のことだからね」 「うわ、冷たっ! それが幼馴染に言う言葉かしら!?」  女言葉で大袈裟に泣き真似をする航太の姿に呆れ、漏らしかけたため息をぐっと堪えた。 (ため息を吐き出した数だけ幸せが逃げていくっていうけど、その分回収するからね。航太)  両手で顔を覆い、えーんえーんと言い続ける親友にそう念を送る。  お調子者の航太との付き合いはもう何年になるのだろうか。  軽い掛け合いはいつも凛一の憂鬱な気持ちを軽くしてくれる不思議な効果があった。  航太の泣き真似をスルーした凜一は、机に伏したままの可絵に視線を向ける。  教室では基本一人を好んでいる可絵。  常に航太と一緒にいる凜一は、可絵と直接話したことがほどんどなかった。  黙っていたら男前と呼ばれる航太と違い、黙っていなくても美少女の可絵を前にして、凜一は髪の先までピリッとするような緊張感に包まれる。  可絵の元へ近づくと、意識しすぎて開きが悪くなっている口を必死に動かした。 「あ、あの、藤木さん。ちょ、調理実習が始まる時間なんだけど」  好意的に聞こえるように願いながら、明るい声で話しかける。  可絵は凜一の言葉に反応するように顔を上げ、ぼーっとした顔で周囲を見回した。  なかなか目の焦点が合わず、自分の状況が理解できないようだ。 黒板の上にかかっている壁掛け時計と、その右側の壁にかかっている時間割を見て可絵はようやく自分のおかれた状況を理解する。 「やば……」  立ち上がろうとした可絵の長い髪がさらりと流れ、机の上に揺れおちた。  ドキッとした凜一はごまかすように目をそらす。 「あ、あの、すごくよく寝てたね。あんまりにも気持ちよさそうだから起こすのも悪いなって思って……」  可絵が動いた時に香ったシャンプーの匂いに心臓が激しく鼓動した。 (って、なにいいわけしてるんだろう、僕……)  胸に沸き立つ不純な気持ちをごまかすようにしゃべる凜一を、親友は生暖かい気持ちで見守る。  白く透き通る肌に黒くつややかな髪。  長い睫毛に縁どられた瞳はトロンとしていて、まだ眠いのが見てとれた。  可絵はふらふらとした足取りで教室の出口に向かう。 「あ、危ないよ! 藤木さんっ」  凜一が声をかけたと同時に、可絵は木製の引き戸にぶつかった。慌てて駆け寄り見ると、可絵の額が赤くなっている。 「あ、あ、あっと…… 冷やす? いや、それよりも保健室がいいのかな。 航太、どうしよう?」  急に話を振られた航太はびっくりした顔で自身を指さした。  すぐに首を左右に勢いよく振る。 「え? なに? それじゃわかんないよ」  航太は怖い顔で口をパクパクと動かすだけ。凜一は困惑して眉間に皺を寄せた。  それを黙って見ていた可絵は、冷静な表情で口を開く。 「えっと……最上君? だよね」  二年生になってから初めて同じクラスになったとはいえ、もう半年以上一緒の教室で過ごしていた可絵に、名前を疑問形で尋ねられがっかりしつつ、気取られないように凜一は笑顔で頷いた。 「わたしなら大丈夫。慌てないで」 「あ……ごめん」  可絵の前で失態をさらしてしまったことに気づき、凜一の頬にさっと赤みが走る。  しかし可絵は全く気にしない様子で、何事もなかったかのように教室から出て行った。  取り残された凜一がぽかんとしていると、成り行きを黙って見ていた航太が 「ぶっ」と噴き出す。 「ちょっ! な、なんで笑うんだよっ」 「ぶふっ! あ、いや……ぶぶっ、くふふっ」  航太は笑い上戸だ。  一度笑いだすとなかなか止まらない。  それを知っていた凜一は、航太を無視して教室を出ることにした。  肝心な時かっこ悪い自分を呪いながら。  凜一と航太の通う黄島(きじま)高校は元は男子高で、共学になったのは十数年前。  当初は共学になるというだけで大きな期待を抱いていた男子生徒が多数存在したらしい。  しかし、なにかにつけて男女平等を訴える者のせいで、男子校時代はなかった家庭科という科目が追加されたり、女生徒が過ごしやすいようにという名の元、女子の奴隷と化して様々な雑用を押し付けられることが多かった。  いつしか女生徒≧男子生徒という図式が出来上がったのである。  そんな中でも、女生徒とも対等な立場にたてるものもいた。  外見がいいとか、頭がいいとか、スポーツができるとか……なにかに秀で目立つ生徒はちやほやともてはやされる。  航太もその一人。  よく焼けた肌に明るい髪。  くっきりとした二重は形良く、見た目だけは雑誌のモデルとして通用するのにお調子者で存在が賑やかな航太は、男女共に人気があった。  一方の凜一は航太とは対照的で、白い肌に黒い髪。  パーマをかけてるみたいな癖毛は幼い頃は自慢だったが、今は嫌で嫌でたまらない部分だったりする。  元々整った顔をしているのに、高校に入学してから顔を曇らせてばかりの凛一の事を、航太はなにかと気にかけた。  凜一が自分は航太の引き立て役なんじゃないかと悩んでいるなんて、航太には思いもつかないのだろう。  しかし、凜一には航太を避ける勇気もなかった。  幼稚園、小学校、中学校ときて高校までの十四年間。  毎日一緒にいすぎて、そばにいることが当たり前になりすぎていたから。  だから誰とも群れず、一人で自由に行動する可絵に憧れの気持ちを抱いていたのかもしれない。  あんなにも憂鬱だった家庭科実習も、可絵と会話できたことが嬉しくてたまらない凜一にとっては些細なことになっていた。  二階の教室から階段を下り一階に移動した二人は、授業前でざわつく廊下を歩き調理実習室を目指す。 スキップしそうな程足取りが軽い幼馴染の横顔を見つめ、航太はにやりと笑った。 「おーおー、さっきとは打って変わってご機嫌だねー」 「え? そ、そうかな」 「うんうん。いいことだ。うんうん」  何度も深く頷く航太を壊れたおもちゃを見るような目で見ていた凜一は、ふと思い立ち調理実習室前で足を止める。 「ん?」  凜一に気づいた航太も、首を傾げ立ち止まった。 「どした?」 「そういえば……」  凜一が口を開いたタイミングを見計らったかのように授業開始のチャイムが鳴りだし、航太は「あ、やべ」と呟く。  凜一も黒いベルトの腕時計で時間を確認し、すぐに視線を航太に戻した。 「あ、あのさ、さっき……」 「りんいっちゃん、俺たちこのタイミングで教室はいったら、できてるとかって思われないかな?」 「ばっ! 馬鹿。なに言ってんだよ。そんなことあるわけないだろ。そうじゃなくてさ、さっき藤木さんと話してた時なんだけど」  凜一が航太の冗談を受け流し、本題を切り出した時だった。  聞いた者の身の毛がよだつ程の恐怖に満ちた男女の悲鳴が、実習室の扉越しに響いた。 「な、なに!?」 「わかんねぇ!」 「調理実習室からだよね?」 「たぶん……」  航太と凜一は顔を見合わせ、家庭科実習室の引き戸を見つめる。  校舎一階の角部屋にある実習室の周囲には実習準備室、保健室があった。  数人の人がもみ合うようなシルエットが、実習室の濁りガラス越しに見える。  女子の甲高い悲鳴と、男子の呻くような声が聞こえた。  航太は意を決して実習室の戸に手をかける。 「こ、航太っ! ちょっと、待っ……」  凜一は嫌な予感がして止めた。  しかし航太は凜一が止めるよりも先に扉を開く。  
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