52人が本棚に入れています
本棚に追加
八台のステンレス製の流しと調理台が並ぶ室内で、クラスメイトがなにかを囲むように集まっていた。
漂う出汁の香りが凛一の食欲を刺激する。
なにを見ているのかと輪の側に移動した二人は、絶句した。
クラスメイト達が遠巻きに見ていたもの。
そこには、自らの左腕に包丁を突き立てる三十代の女性家政科担当教師、三苫の姿があった。
「な……」
呆然として立ち尽くす凜一を押しのけ、航太は実習室の中に入り、すぐ近くいたクラスメイトの肩を掴む。
「鈴っち。これ……一体どうなってんの?」
航太に話しかけられた鈴っちこと田中鈴秋は、真っ青な顔で航太を見た。
動揺からか、瞳が小刻みに揺れている。
流行に敏感な外見で明るく陽気なキャラクターが持ち味な鈴秋は、その陰見るよしもなく、恐怖でひきつった顔をしていた。
航太が更に問いただそうとすると、三苫は再び嬌声を上げ、
「きゃははははっ」
と、とても楽しそうに包丁を腕から抜いては刺す行動を繰り返す。
包丁が抜かれるたびに、周囲に飛び散る赤い液体。
そして嫌でも聞こえる、刃物が皮膚を破り肉を刺す音。
「う……うわああぁぁぁっ」
「きゃあぁぁぁっ!」
なにがきっかけになったのか、それまで凍り付いたように動かなかったクラスメイト達が一斉に実習室の外に駆け出した。
鈴秋も航太の手を振り払い、外に逃げ出そうとする。
「おいって!」
航太は鈴秋の右手を掴んだ。
振り返った鈴秋は苛立ちから泣きそうな表情で航太を睨み、、今だ甲高い声で笑い続ける三苫を指差した。
「俺だってわかんねぇんだよっ! あ、あのばばあが勝手に……」
そこに跳ね除けられる形で押された凜一の体が、タイミング悪く航太の体にぶつかった。
「あっ!」
「うえっ!? りんっ? あ、鈴っち! ちょ、ちょぉっ」
その拍子に航太の手が鈴秋の手から離れ、これ幸いと鈴秋は実習室から逃げ出す。
入り口でもたついていた二人はバランスを崩しながらも、なんとか転倒は踏みとどまった。
「ごめん……航太」
「あ、いや……」
次の瞬間、
「どけろよっ!」
「あっ……!」
凜一は背後から何者かに蹴り飛ばされる。
凜一の体は調理台に向かって横向きに吹っ飛びぶつかった。
派手な音を立てて台の上のステンレス製のボールや調理器具が床に転がる。
「りんいっちゃん!」
「お前、邪魔なんだよっ!」
脇腹を台に打ち付けた凜一は床に座り込み、航太が慌てて駆け寄った。
その後ろを凜一を蹴りつけた人物、森田光男が悪態を吐きながら通り抜けて行く。
「森田っ」
追いかけようとした航太の手を、凜一は止めた。
「航太、ぼ、僕は大丈夫だから。それより、先生を……」
凜一の言葉にはっとした航太が顔を上げると、さっきまで聞こえていた三苫の狂ったような笑い声が病んでいることに気づく。
そして三苫の動きを拘束する数人の男女の姿に目がとまった。
右手を抑えているのはがっちりとした体格で坊主頭の柔道部員、東堂圭司。
東堂に指示され、青い顔で左手にしがみついているのは190センチはありそうな長身の男子生徒、真壁邦明。
そして三苫の腰に両手を回し動かないように必死に抱き止めているのは、クラス委員長をしている加賀見静奈だった。
静奈は航太に気づき、
「海野君っ! 包丁! 包丁取り上げて!」
張りのある声で叫ぶ。ハッとして三苫の手を見た航太は、三苫が今だ包丁を握りしめたままなことに気付く。
三苫は低い声で、獣のように唸り威嚇する。右手を拘束している東堂の額に汗が滲んで見えた。
「う、海野っ! なんとかしてくれぇっ!」
素早い動きで両手にミトンを装着した航太は、血走った眼を剥き、自身を拘束する三人を払いのけようと必死な三苫に向かって飛びかかる。
三苫は航太に噛みつく為、首をぐいっと横に傾け歯をむいた。
そこに航太はミトンをはめたままの左拳を突っ込み、三苫が怯んだ隙に右手で包丁の刃の部分を握りしめる。そして思いっきり三苫の腹に右足で蹴りを叩きこんだ。
「うおっ!」
「きゃあっ」
「ええっ!?」
航太の予想外の行動に、東堂、静奈、真壁の順番で奇妙な声をあげ、四人まとめて後ろに倒れる。
「航太っ!」
呆気にとられた凜一が駆け寄ると、航太が嬉しそうに右手を掲げた。
「これ、あんま役にたたないね」
ミトンをつけたその右手には鈍く輝く包丁が刃を持つ形で握られている。クリーム色の生地にうっすらと紅が滲んだ。
それからが大変で。
実習室を出て行った生徒が職員室から数人の教員を引き連れて戻ってきたのだが、当の三苫は白い骨が露出するほどに腕がズタズタに裂かれ、血まみれの状態まま意識を失っていた。
三苫を取り押さえていた三人は転んだ時の衝撃と、現状の悲惨さに呆然と床に座りこんでいたのだが、その間に刃物をもっていた航太が騒動の発端だと勘違いされ……凜一や実習室に戻ってきた生徒の証言で疑いが晴れるまで、今事件のヒーローは汚名をきる事となる。
これが、始まり。
最初のコメントを投稿しよう!