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第二校舎に向かうことにした凛一は、連絡通路を渡りながら、第一、第二校舎を見下ろしていた。
山森と樹里と話しているうちに、誰の話を信じればいいのかわからなくなったのだ。
凛一自身は、静奈を、東堂を信じたい。
しかし、樹里が見せた傷の痛々しさが、樹里の、山森の傷ついた瞳が、偽りではないと語っていた。
今度誰かと出会うことがあったら、話がしたい。
争うのではなく、一緒にここから出る相談がしたい。
そう思いながら両方の校舎を見ていると、第二校舎の生物室に動く人影を見つける。
ちらちらと映る、耳の下で切りそろえたショートボブ。
(加賀見さんだ)
凛一の心臓が、ドクンとなった。
最後に見た眼差しが頭から離れない。
山森の言葉が、頭の中で繰り返される。
だからこそ、静奈と話をしたい。
そう決意した凛一は、生物室を目指すことにした。
生物室は第二校舎の一階にある。
連絡通路を通り、第二校舎の三階へと移動した凛一は、第二校舎の空気が第一校舎とは違う事に気づいた。
とても生臭く、嫌な感じがする。
どこからこの臭気が出ているのか気になった凛一は、三階の教室を確認する事にした。
第二校舎には図書室、進路指導室、生徒会室と放送室、そして備品置き場がある。
図書室は入口の引き戸がひどく変形していて、人が一人通るのがやっとな隙間ができていた。
頭だけ入れて中を見るが、人の気配はない。
(なにがあればこんな風になるんだろう)
校長室の鍵が壊された時の事を思い出し、ぞっとする。
この中にたてこもっていた誰かが、引っ張り出されたのだろうか。
凛一はドアから目を逸らし、不安を断ち切るように首を振った。
隣の進路指導室、生徒会室、放送室は外から一目で中がわかるような造りになっている。
普段から鍵がかかっている事が多く、この時も施錠されていた。
凛一は外から覗き見るだけに留め、備品置き場に移動する。
ここもいつも鍵がかかっているのだが、スチール製のドアは開かれたままになっていた。
恐らくここでも何かあったのだと察した凛一は、渋りそうになる気持ちを奮い立たせ、恐る恐る進む。
備品置き場に入って最初に目に入ったのは、乱雑に積まれた教材の数々と、複数の棚。
そして、部屋の中心で横たわる森田の姿だった。
「も、森田!?」
動揺のあまり足がもつれ、体がふらつく。
「なんで……」
近づかなくても、森田が既に生きてはいない事は、一目でわかった。
かっと見開かれた目の表面は乾き、床の埃がついている。
口の端からは赤黒い血が流れ、体の下には失禁したのか尿だまりができた跡があった。
森田自身の口から話を聞きたいと思っていたのに、それはもう適わない。
左目から自分の意志に関係なく、涙が零れる。
森田とは親しかったわけじゃない。
それでもクラスメイトの死は辛かった。
どうしてこんなに人が死んでいくのか。
「なにがあったんだよ……森田」
森田の体には外傷らしきものはない。
どうして死んでしまったのか。
袖で涙を拭いながら、凛一は森田の死に対して引っ掛かるものを感じた。
今まで見てきた『死』との違い。
その違和感は段々自分の中で大きくなってくる。
森田の『死』と、近藤や本井の『死』はなにかが違う。
「……体が、ある?」
凛一は苦痛に歪む森田の顔を見つめ、気づいた。
今まで目の名前で幾人か死んでいったが、そのすべての死体はいつの間にか消えていた。
その違いに、一連の謎を解く答えがあるのではないか?
すでに温もりを無くした森田の体を、凛一は注意深く観察した。
胸の前で組まれた手は、びくりとも動かない。
(誰かが森田の手を組ませた? 森田は誰かと一緒にいたんだろうか)
それが一体誰か検討もつかない。
その人物に会えば、なにがあったのかわかるのに。
凛一は備品置き場を見回す。
なにかヒントになるものがないかと思っての事だったが、特に気になるものはない。
いや、今の自分にはヒントとなるものでさえもわからないという事が、とてももどかしく感じた。
決して広いとは言えないこの校舎の中で、何人もの人が死んでいる現実。
自分の身を守るため、潜んでいるものがほとんどだろう。
このままバラバラでいてはいけない。
森田の死と対面した凛一は、強くそう感じた。
まずは静奈がいるであろう生物室に行くため、備品室から出る。
一階まで降りる時も、二階に誰かいないか注意を配った。
不思議なもので、人の気配というのは完全に絶つ事は難しい。
人は生きている限り、完全な無になることはないのだ。
息を吸う音。息を吐く音。心臓の音。
それらの尊さを、この半日で凛一は学んだ気がする。
生物室の前まで移動した凛一は、ドアを数回ノックした。
階段を下りている間に、静奈になんて話しかけるかは決めていた。
中から、なにか動く気配がしている。
「加賀見さん」
凛一が声をかけると、ぴたっとその音が止まった。
「加賀見さん。ごめんね」
一人にしてごめん。
怖い目にあわせてこめん。
僕を、置いていく選択をさせてごめん。
それを全部含めた『ごめん』だった。
しばらくの沈黙の後、生物室の鍵が開く。
そして、開かれたドアの向こうにいたのは、凛一の顔を信じられないものでも見るような目で見つめる静奈であった。
「……最上君。無事、だったのね」
凛一は静奈が自分を案じてくれた事にほっとし、微笑む。
「うん。なんとかって感じだけど」
静奈はガムテープでグルグル巻きになった右目を見ながら、痛々しそうに眼を細めた。
「ごめんなさい。もうだめだと思って、私……」
「いいんだ。僕は大丈夫だから。加賀見さん、一緒に行こう?」
凛一は静奈にそっと右手を差し出す。
しかし静奈は首を横に振った。
「最上君。私、あなたと行けない」
「え? どういう……」
凛一が静奈に問いかけた時だった。
差し出した右手が、熱湯をかけられたように熱くなる。
手の平に感じる、なにかが流れる感覚。
そして広がる、びりびりとする痛み。
なにが起こったのか、手の平に目を向けると、凛一の右手首が一文字に裂けていた。
そこから流れ出た血が、手の平を伝い、床に小さな水たまりを作っていた。
「加賀見……さん?」
左手で傷口を抑え、静奈を見ると、静奈は首を横に傾げたまま微笑んでいた。
「最上君。あなたに期待してたんだよ。これでも。
でもダメ。全然ダメだった。
あなたみたいな人って根っから才能ないんだね」
静奈の声が確かに聞こえているのに、耳から言葉が落ちていく。
認識したくない表れか、それとも、混乱のせいか。
静奈の微笑みは、いつもとなにも変わらない。
それなのに口から出る言葉は、まるで別人みたいだった。
傷口を抑えたまま後ずさる凛一の手首を見ていた静奈は、ふう、とため息を吐く。
「残念。浅かったのね。でも大丈夫。次は失敗しないから」
「なんで……いや、違う。そうじゃなくて」
混乱する凛一を、静奈はじっと見ていた。
観察するように。
「なんでこんな事するのか、聞きたいの?」
凛一は首を横に振った。
目に涙が滲む。
そんな凛一に気付いた静奈は、あざ笑うように目を細めた。
「ああ、がっかりした? 怯えて、泣いて、最上君を頼りにするような私が良かったんだよね? 嬉しかったんでしょう? 頼られて。だから見捨てられたのに私を捜してきたんでしょ?」
耳を塞いでしまいたかった。
静奈が言った事が、図星だったから。
凛一の事を頼りにしてくれた静奈。
凛一がいなくても大丈夫そうな可絵。
二人と一緒にいる時、凛一は選んだのだ。
淡い恋心を抱いていた可絵ではなく、静奈の側にいる事を。
それは静奈といたほうが、自分が誰かに頼られるような存在だと思えたから。
見ないようにしていた自分の本心を自覚し、凛一は涙を零した。
汚い自分を静奈に気付かれていたことが、とても恥ずかしい。
いや、静奈だけではない。
きっと可絵も……
静奈の右手に光るペーパーナイフの先についた血の色が、凛一を絶望させる。
山森と樹里から聞いた話を思い出した。
静奈と東堂、真壁達が鈴秋を殺したのだと。
否定するように頭を横に振った凛一を見て、静奈が愉快そうな笑い声をあげた。
「ごめんね。でも、嘘なんてついてなかったのよ。ずっと怖かったし、あなたの事、頼りにしてたもの」
静奈がペーパーナイフを、凛一の目の前に突き出す。
静奈の表情は先程までとは一変し、真剣なものになっていた。
「え?」
「なんでわたしはこっち側だったのか……」
(こっち側?)
凛一は涙を拭う事もせず、ただ静奈をじっと見つめる。
静奈の目の奥にある、闇の奥深くまで。
そして、凛一は突き出した静奈の手を、両手で掴んだ。
向けられたペーパーナイフが、顔先数センチにあるのも厭わず。
そして首を左右に勢いよく振る。
「ごめん。ごめんね、加賀見さん。僕が頼りないから、だから君にこんな事をさせてしまって……」
凛一は、自分が信じていた静奈を信じる事に決めた。
それは滑稽な選択かもしれないけれど。
それでも、自分が信じたいものを信じようとした。
静奈の手に、凛一の右手首から流れた血が伝わる。
静奈の手から力が抜け、床にペーパーナイフが落ちた。
カランっという乾いた音が廊下に響く。
「加賀見さん?」
それが静奈の敵意の消失だと思った凛一は、笑顔で顔を上げた。
突如、歪む視界。
目の前が白く霞み、体が震え、膝から力が抜けていく。
血を流しすぎたせいか、意識が朦朧とし始めていた。
「か、加賀見さ……」
ぐらりと揺れる視界の中で、静奈の視線を感じる。
静奈の瞳の奥に見えた闇が、凛一の混沌と混じり合う。
静奈が何を言いたいのか、傷つけられても理解できない。
静奈が何を凛一に求めているのかも、わからない。
薄れゆく意識の中、静奈がぽつりと呟くように言った。
「がっかりよ。最上君。結局あなたは自分が見たいものしかみないんだわ」
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