52人が本棚に入れています
本棚に追加
航太と凛一は元々仲が良かったわけではない。
出会いは私立幼稚園の年中クラスの時だった。
年少の頃から預けられていた航太はとても活発で、友達と一緒に園庭を走り回っているタイプ。
一方、年中から途中入園の凛一は、教室で一人ブロックをしたり、絵本を読むことが好きだった。
そんな二人が初めて会話をしたのは、六月の延長保育の時間。
一人、また一人と帰宅していく中、航太と凛一二人だけ残った事があった。
一人遊びができる凛一と違い、誰かと一緒でなければ暇を持て余してしまう航太は、その時初めて凛一を誘ったのだ。
『一緒にかくれんぼしない?』
二人だけのかくれんぼ。
鬼となる人物が、隠れている人を捜すだけのゲーム。
狭い教室の中、その決着は早いと思われた。
しかし。
このゲームは結局終わる事ができなかったのだ。
航太が仕掛けたいたずらのせいで。
鬼になったのは凛一。
毎日通っている教室なので、どこに人が隠れているかは予想がつきやすい。
その時も、唯一扉がついている掃除道具を入れるための木製ロッカーの中に航太が隠れている事はすぐにわかった。
両手で目を隠し、一から十まで数を数えた凛一は、迷うことなくロッカーの扉を開けた。
しかしそれは航太もわかっていた事。
教室に置いてあったピアノの陰に隠れていた航太は、ロッカーの中を覗き込む凛一目掛けて勢いよく飛び出すと、その背中を突き飛ばした。
『えっ?』
驚く凛一の体が掃除道具入れの中に吸い込まれるように入ったのを確認し、扉を閉める。
これは航太が掃除の時間に、友達とふざけてやる遊びだった。
凛一の事も驚かせてやろうt思ってやったのだが、状況が違う。
『ぎゃああぁぁぁぁーー!!』
けたたましい凛一の絶叫が響き、その声に廊下で事務員と話していた担任が慌てて教室に飛び込んできた。
驚きのあまりロッカーの前で硬直している航太を見た担任は、なにが起こったのか一瞬で悟り、扉を開ける。
するとそこには、髪の生え際辺りがぱっくりと割れ、血塗れになった凛一の姿があった。
掃除の時間は掃除道具が取り出されているので、その中に隠れる事が可能なのだが、この時はもちろんそうではない。
航太に背中を押された凛一は、足元にあったバケツに足をとられ、そのまま頭からロッカーの中にひっくり返ってしまったのだ。
トタン製のバケツの取っ手部分に頭をこすり付けるような形になった凛一は、体勢が悪かったせいで十センチも切れ、また、頭という事もあり、出血が激しいものとなったのである。
結局、保護者の迎えを待たずに園長によって提携の小児外科へと運ばれた凛一は、十針以上も縫わなければいけなくなった。
当時すでにシングルマザーであった凛一の母親と、航太の両親、また、事務員と話していて二人から目を離していた担任とで話し合いの場がもたれたようだが、それは凛一も詳しくは知らない。
傷は残ったが、髪で隠れるし、凛一の母親も気にしている様子はない。
当時は航太の両親となにかあったのかもしれないが、母親同士、ちょっとした連絡は取り合うくらいの付き合いはある。
しかし、運ばれていく凛一を、一人教室で見送るしかできなかった航太の中にはこの事は大きな傷となって残った。
目で見えない部分だからこそ、より深く。
この件から、航太は凛一の側から離れなくなったのだ。
仲が良いからというわけではない。
負い目。
それが全ての関係。
凛一は何度も航太に言ってきた。
『もうそばにいなくていい。怪我も大したことじゃないし、年々薄くなってるから』
と。
でも、航太はその言葉を聞き流す。
幼稚園、小学校、中学校と続いてきた縁も、高校でやっと切れるかと思っていた。
しかし、航太は高校も凛一と同じところを選んだのだ。
これから先も航太の負い目を感じながら、一緒にいなくてはいけないのか?
凛一は限界だった。
航太の事を嫌いなわけじゃない。
航太をかけがえがない存在だと感じるからこそ、二人の間にあるのは絆ではない事が辛かった。
だから、航太がいつか過去を許して凛一から去っても寂しくないように、凛一は航太につれない態度をとっていたのである。
(本当なら航太が僕の友達だなんて事ないんだ。原田さん)
航太との関係を泣いて責めた樹里の顔を思い出し、凛一は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
だからこそ、自分のせいで同じように危険な目にあっているかもしれない航太を、放っておくわけにはいけない。
そう決意した凛一は、閉じていた左目を無理矢理開いていく。
ボンドでくっつけたように固い瞼は、思い通りにはいかない。
傷が開いてしまったのか、右目が熱かった。
頬に感じる冷たい板の感触から、自分が俯せで床に倒れている事はわかる。
まずは起き上がる為、無防備に広げた両手に力を込めた。
倒れた時にぶつけたのか、肩に鈍い痛みが走ったが構わない。
なんとか上半身を起こした凛一は、顔に力を入れながら左目を開けた。
最初に目に入ってきたのは一面の赤。
鮮やかな深紅の薔薇を一面に敷き詰めたような。
しかし、この状況でそんな事はあり得ない。
赤が意味するものを察した凛一は、すぐに立ち上がろうとして、前のめりに倒れる。
怪我を負った右手が、ぬるっとした液体のせいで滑ったのだ。
再び立ち上がろうとした凛一の指先に、なにかが触れる。
冷たい、人の肌の感覚。
なにがあるのか、想像するのは容易だった。
凛一が意識を手放す前、一緒にいた人物。
赤い液体が意味するもの。
凛一は恐る恐る指先で感じた誰かを確認する。
「……え?」
凛一はそこに横たわっているのは静奈だと思っていた。
しかし、目に映ったのは全く別の人物の苦悶に満ちた表情だったことに驚愕する。
くの字に曲がった体。
真横に搔き切られた首からは血が噴き出した跡があった。
傷口を抑えようとしたのであろう両手は、意味をなさなかったのであろう。
鎖骨の辺りを抑えるような形をしていた。
ブリーチで脱色した髪が血を吸い込み、巨大な筆のようになっている。
「原田さんが……なんで?」
そこにいたのは静奈ではなく、視聴覚室で別れた原田樹里だった。
混乱する凛一は、自分の側に静奈が持っていたペーパーナイフが落ちている事に気付く。
銀製のそれは刃先が血でべったりと濡れていた。
「う……うあぁあぁぁぁっ!!」
凛一はペーパーナイフを掴み、遠くに投げる。
ペーパーナイフはカンッという金属音を響かせ、暗い廊下に転がっていくのが見えた。
(なんで原田さんがここに? 山森は? 加賀見さんは……)
周囲に目を配るが、人の気配はない。
凛一はカッと見開かれた樹里の顔を見ながら、涙を流す。
航太と会わせてあげることができなかった後悔と、懺悔の気持ちで。
樹里がすぐ側でこんな目にあっているのに、何故意識を失っていたのか。
何故自分は無事なのか。
何故樹里は視聴覚室から出て、こんなところにいるのか。
静奈と山森はどこに行ってしまったのか。
そして、誰が樹里をこんな目に合わせたのか。
考えても、考えても、その答えが導きだせるわけはない。
「もうどうしていいかわかんないよ……航太」
凛一は溢れる涙を拭う事もせず、立ち上がった。
樹里の血か、自分の血かわからないが、血まみれの制服を他の人が見たらどう思うだろうか。
凛一が犯人だと思うかもしれない。
「ごめんね、原田さん」
凛一は物言わぬ樹里にそういうと、立ち上がった。
誰でもいい。
誰かと一緒にいなければ、自分が壊れてしまうと思っていた。
生物室を後にし、廊下を歩く凛一の口から、嗚咽が漏れる。
助けて! と叫びたい。
それが自分に害を成す相手の耳に届いたとしても、もう人の死を見るのは嫌だった。
その時。
背後でなにかが動く音が聞こえた気がした。
小さな音だが、なにかが擦れるような、カツカツという小さな音。
それに混じるはっはっという息遣い。
(まさか、原田さん、無事で……?)
慌てて振り向いた凛一の視界に飛び込んできたのは、学生鞄ぐらいのサイズをした茶色の子犬だった。
最初のコメントを投稿しよう!