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「どこから入ってきたんだ? お前」
目の前の子犬に問いかける。
樹里の死に打ちひしがれた凛一の前に現れた、一匹の子犬。
吠えるわけでもなく、ただ、尾を振って凛一を見上げる茶色の子犬の存在は、暗闇の中で見つけた光のようだった。
痛む体に鞭打って子犬を抱き上げた凛一は、階段に向かって歩き始める。
「みんなどこに行ったんだろう」
子犬は暴れる様子もなく、凛一の手の匂いを嗅いでいた。
時折触れる冷たい鼻の感触が、こそばゆい。
ふと、子犬の足の裏が濡れている事に気付いた。
なにか尖ったものでも踏みつけたのか、肉球に切り傷がある。
「お前、怪我してるんだ。……僕と一緒だね。ちょうど良かった。手首の傷の手当てもしたかったし、保健室に行こうか」
本来なら外の通路を通ればすぐに移動できる保健室。
保健室に行くには、三階の連絡通路を通らなくてはいけない。
凛一は子犬を抱いたまま、階段を上った。
その間、濡れた瞳で自分を見つめる子犬に語りかけながら。
体も心もボロボロだった。
それでも子犬を見て、かわいいと思える気持ちはある。
疲れているせいか、子犬が校舎内にいる事は特に気にならなかった。
迷い込んだところを、運悪く閉じ込められた、ぐらいで。
考える事を放棄していたのかもしれない。
連絡通路を通り、第一校舎へ移動した凛一は、下の階から聞きなれない工具の音がする事に気付いた。
工事現場で聞くような、キュルキュルとした擦れる音。
腹の底に響く重低音はとても場違いで。
「誰かいる?」
(真壁、山森、静奈、可絵? それとも航太?)
凛一の鼓動が激しくなる。
誰かと会うのが怖い。
でも。
「行こうか」
なにも言わない子犬の顔を覗き込み、そう呟くように言った。
子犬はきょとんとした目で、首を横に傾げる。
「大丈夫。怖くないよ」
音の響き具合から一階だろうと中りをつけた凛一は、今度は第一校舎の階段を下りていく。
音がしたのは一度だけ。
話し声も聞こえない。
子犬の体温に救いを求め、きゅと抱きしめた。
嫌な予感を誤魔化すように。
一階に着いた凛一は、長い廊下に目を向けた。
職員室がある方になにもない事を確認した凛一は、そのまま保健室の方を確認する。
「え……?」
凛一は目を疑った。
いや、目の前のものだけじゃない。
全てを否定したかった。
こんな事あってはならない。
見たくない。
無事だった左目を取り出したい程の強い衝動にかられた。
腕の中の子犬が、びくっと体を震わせたのが分かる。
髪の毛が、皮膚が異常に敏感になっていた。
凛一は一歩、前に足を踏み出す。
「最上君?」
ずっと聞きたかった人の声。
凛一は錆び付いたドアノブみたいに、ぎこちない動きで口を開く。
「……藤木さん」
開け放たれた保健室の入口から顔を覗かせた可絵は、凛一の様子を見て絶句した。
凄惨なその姿に、なにも言えなかったのだろう。
ガムテープを巻き付けた顔の右側は血で汚れ、白いカッターシャツも至る所が赤く染まっている。
そしてその腕の中にあるものを見て驚いた。
「カフ?」
名前を呼ばれた子犬の耳が、ぴくっと立つ。
凛一に抱かれたまま可絵の方を見た。
「なんで最上君がカフを?」
「……聞いていい? 藤木さん」
「え?」
首を傾げた可絵の黒い髪が、さらりと流れる。
教室でこんなシーンを見るたびドキドキしていたのが、数年も前のように感じた。
白く透けるような肌も、まっすぐな瞳も、自分の恋した可絵そのものなのに。
可絵が右手に持っているネイルガンだけが、異様な空気を醸し出していた。
「二人を……それで撃ったの?」
凛一は、保健室前の廊下で倒れている人物に目を向ける。
廊下を見回した時、一番最初に視界に飛び込んできたもの。
それは、全身に釘を撃たれ、仰向けに床に寝そべる静奈と、顔が釘だらけになった真壁の姿だった。
今日何度も見たからわかる。
二人の皮膚が、生きている人間と違ってしまっている事に。
カフを抱く手に力が籠る。
頭の中がぐらぐらして、息がうまく吸えない。
可絵はカフに向けていた目を凛一に戻すと、首を横に振った。
「本当に?」
「真壁君も、加賀見さんも、私達を殺す気だったとは思う」
「だから? だから殺したのっ!?」
可絵の声を遮るように感情のまま叫ぶ凛一を、可絵は見つめる。
「最上君は、私達が殺された方が良かった?」
そうとられておかしくない自分の発言に気付き、凛一の頬にさっと赤みが走った。
「そんなつもりは……」
恥ずかしさから俯きかけた凛一の視界に、ネイルガンが入る。
顔を上げると、いつの間にか凛一のすぐ目の前まで移動していた可絵が、ネイルガンを凛一に向けて立っていた。
「ふ、藤木さんっ?」
「最上君は、自分がこんな事されたらどうするの?」
「どうって、そんなの、わからないよ」
「今、考えて」
可絵の目が細くなる。
本気だと、凛一は感じた。
可絵は、本当に凛一を殺そうとしている。
(なんで……なんでこんな風になっちゃうんだ)
凛一は一歩、後ろに下がった。
可絵が一歩、前に進む。
一歩、一歩と移動しているうちに、階段の前まで来た。
可絵は今まで見たことがないくらい、とても冷たい顔をしている。
それまでおとなしかった子犬が、急に凛一の腕から逃れるように動き始めた。
「あっ・・・・・」
子犬を床に落としそうになり、それに気づいた可絵がネイルガンを手放し、駆け寄る。
凛一と可絵の距離が一気に縮まり、二人は一緒に子犬を抱きとめた。
至近距離に来て初めて、凛一は気付く。
可絵の瞳が濡れていた事に。
子犬を挟んで触れ合った手は、細かく震えている。
「藤木さん……」
可絵はそっと愛しむように、子犬を抱き上げる。
子犬は千切れんばかりの勢いで、少し短めの尾を振った。
その様子から、犬が可絵にとてもなついている事を悟る。
「まさかこの子、藤木さんの?」
「ええ。ずっと、捜してたの」
可絵が危険を冒してまで捜していたのが、この子犬だったと知り、凛一は自己嫌悪で可絵の顔を見ることができなくなってしまった。
「疑って……ごめんね、藤木さん」
可絵はネイルガンを手放す事を躊躇せず、子犬を守るほうを選んだ。
初めから凛一に害を加える気はなかったのだろう。
でも、本当に可絵が自分を殺そうと思っていたなら、自分はどうしただろう。
反撃するよりは、と撃たれただろうか。
それとも、逆に可絵を……と考え、凛一は思考を閉じる。
仮説は必要ない。
迷うことなくネイルガンを手放した可絵を、凛一は信じたいと思った。
子犬を抱きしめる可絵から目を逸らし、凛一は真壁と静奈の元へと移動する。
無言のまま横たわる二人の姿は、体や顔面に突き刺さる無数の釘がなければ寝ているみたいだった。
「ごめん。真壁。加賀見さん」
可絵に聞こえないぐらい小さな声で語り掛ける。
クロスボウを持つ真壁に追いかけられた時は、確かに怖かった。
静奈に傷つけられた手首は痛かった。
豹変した静奈の姿や、山森と樹里の話を思い出すと、可絵を殺そうとしたという言葉も信じられる気はする。
でも、意識を失った凛一を、静奈は殺さなかった。
殺そうと思えばできたはずなのに。
自分が無くした時間に、なにがあったのか。
何故、樹里は自分の側で死んでいたのか。
それを問うことは、もう叶わない。
「最上君」
背後から可絵に話しかけられ、凛一は慌てて手で涙を拭った。
「なに?」
「カフを見つけてくれてありがとう」
可絵に抱かれた子犬は、とても安心した顔で凛一を見ている。
「その子、カフっていうんだね。第二校舎の生物室にいた時に、急に現れたんだ」
「第二校舎に?」
「うん。その……藤木さんがいなくなってから、いろんな事があって」
そういって自身の右目にそっと触れる。
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