バグ

2/3
前へ
/58ページ
次へ
****** 「どこから入ってきたんだ? お前」  目の前の子犬に問いかける。  樹里の死に打ちひしがれた凛一の前に現れた、一匹の子犬。  吠えるわけでもなく、ただ、尾を振って凛一を見上げる茶色の子犬の存在は、暗闇の中で見つけた光のようだった。  痛む体に鞭打って子犬を抱き上げた凛一は、階段に向かって歩き始める。   「みんなどこに行ったんだろう」  子犬は暴れる様子もなく、凛一の手の匂いを嗅いでいた。  時折触れる冷たい鼻の感触が、こそばゆい。  ふと、子犬の足の裏が濡れている事に気付いた。  なにか尖ったものでも踏みつけたのか、肉球に切り傷がある。 「お前、怪我してるんだ。……僕と一緒だね。ちょうど良かった。手首の傷の手当てもしたかったし、保健室に行こうか」  本来なら外の通路を通ればすぐに移動できる保健室。  保健室に行くには、三階の連絡通路を通らなくてはいけない。  凛一は子犬を抱いたまま、階段を上った。  その間、濡れた瞳で自分を見つめる子犬に語りかけながら。  体も心もボロボロだった。  それでも子犬を見て、かわいいと思える気持ちはある。  疲れているせいか、子犬が校舎内にいる事は特に気にならなかった。  迷い込んだところを、運悪く閉じ込められた、ぐらいで。  考える事を放棄していたのかもしれない。  連絡通路を通り、第一校舎へ移動した凛一は、下の階から聞きなれない工具の音がする事に気付いた。  工事現場で聞くような、キュルキュルとした擦れる音。  腹の底に響く重低音はとても場違いで。 「誰かいる?」  (真壁、山森、静奈、可絵? それとも航太?)    凛一の鼓動が激しくなる。  誰かと会うのが怖い。  でも。 「行こうか」  なにも言わない子犬の顔を覗き込み、そう呟くように言った。  子犬はきょとんとした目で、首を横に傾げる。 「大丈夫。怖くないよ」  音の響き具合から一階だろうと中りをつけた凛一は、今度は第一校舎の階段を下りていく。  音がしたのは一度だけ。  話し声も聞こえない。  子犬の体温に救いを求め、きゅと抱きしめた。  嫌な予感を誤魔化すように。  一階に着いた凛一は、長い廊下に目を向けた。  職員室がある方になにもない事を確認した凛一は、そのまま保健室の方を確認する。 「え……?」  凛一は目を疑った。  いや、目の前のものだけじゃない。  全てを否定したかった。  こんな事あってはならない。  見たくない。  無事だった左目を取り出したい程の強い衝動にかられた。  腕の中の子犬が、びくっと体を震わせたのが分かる。  髪の毛が、皮膚が異常に敏感になっていた。  凛一は一歩、前に足を踏み出す。 「最上君?」  ずっと聞きたかった人の声。  凛一は錆び付いたドアノブみたいに、ぎこちない動きで口を開く。 「……藤木さん」  開け放たれた保健室の入口から顔を覗かせた可絵は、凛一の様子を見て絶句した。  凄惨なその姿に、なにも言えなかったのだろう。  ガムテープを巻き付けた顔の右側は血で汚れ、白いカッターシャツも至る所が赤く染まっている。  そしてその腕の中にあるものを見て驚いた。 「カフ?」  名前を呼ばれた子犬の耳が、ぴくっと立つ。  凛一に抱かれたまま可絵の方を見た。 「なんで最上君がカフを?」 「……聞いていい? 藤木さん」 「え?」  首を傾げた可絵の黒い髪が、さらりと流れる。  教室でこんなシーンを見るたびドキドキしていたのが、数年も前のように感じた。  白く透けるような肌も、まっすぐな瞳も、自分の恋した可絵そのものなのに。  可絵が右手に持っているネイルガンだけが、異様な空気を醸し出していた。   「二人を……それで撃ったの?」  凛一は、保健室前の廊下で倒れている人物に目を向ける。  廊下を見回した時、一番最初に視界に飛び込んできたもの。  それは、全身に釘を撃たれ、仰向けに床に寝そべる静奈と、顔が釘だらけになった真壁の姿だった。  今日何度も見たからわかる。  二人の皮膚が、生きている人間と違ってしまっている事に。  カフを抱く手に力が籠る。  頭の中がぐらぐらして、息がうまく吸えない。  可絵はカフに向けていた目を凛一に戻すと、首を横に振った。 「本当に?」 「真壁君も、加賀見さんも、私を殺す気だったとは思う」 「だから? だから殺したのっ!?」  可絵の声を遮るように感情のまま叫ぶ凛一を、可絵は見つめる。 「最上君は、私達が殺された方が良かった?」  そうとられておかしくない自分の発言に気付き、凛一の頬にさっと赤みが走った。   「そんなつもりは……」  恥ずかしさから俯きかけた凛一の視界に、ネイルガンが入る。  顔を上げると、いつの間にか凛一のすぐ目の前まで移動していた可絵が、ネイルガンを凛一に向けて立っていた。 「ふ、藤木さんっ?」 「最上君は、自分がこんな事されたらどうするの?」 「どうって、そんなの、わからないよ」 「今、考えて」  可絵の目が細くなる。  本気だと、凛一は感じた。  可絵は、本当に凛一を殺そうとしている。 (なんで……なんでこんな風になっちゃうんだ)  凛一は一歩、後ろに下がった。  可絵が一歩、前に進む。  一歩、一歩と移動しているうちに、階段の前まで来た。  可絵は今まで見たことがないくらい、とても冷たい顔をしている。  それまでおとなしかった子犬が、急に凛一の腕から逃れるように動き始めた。 「あっ・・・・・」  子犬を床に落としそうになり、それに気づいた可絵がネイルガンを手放し、駆け寄る。  凛一と可絵の距離が一気に縮まり、二人は一緒に子犬を抱きとめた。  至近距離に来て初めて、凛一は気付く。  可絵の瞳が濡れていた事に。  子犬を挟んで触れ合った手は、細かく震えている。 「藤木さん……」  可絵はそっと愛しむように、子犬を抱き上げる。  子犬は千切れんばかりの勢いで、少し短めの尾を振った。  その様子から、犬が可絵にとてもなついている事を悟る。 「まさかこの子、藤木さんの?」 「ええ。ずっと、捜してたの」  可絵が危険を冒してまで捜していたのが、この子犬だったと知り、凛一は自己嫌悪で可絵の顔を見ることができなくなってしまった。   「疑って……ごめんね、藤木さん」  可絵はネイルガンを手放す事を躊躇せず、子犬を守るほうを選んだ。  初めから凛一に害を加える気はなかったのだろう。  でも、本当に可絵が自分を殺そうと思っていたなら、自分はどうしただろう。  反撃するよりは、と撃たれただろうか。  それとも、逆に可絵を……と考え、凛一は思考を閉じる。  仮説は必要ない。  迷うことなくネイルガンを手放した可絵を、凛一は信じたいと思った。  子犬を抱きしめる可絵から目を逸らし、凛一は真壁と静奈の元へと移動する。  無言のまま横たわる二人の姿は、体や顔面に突き刺さる無数の釘がなければ寝ているみたいだった。 「ごめん。真壁。加賀見さん」  可絵に聞こえないぐらい小さな声で語り掛ける。  クロスボウを持つ真壁に追いかけられた時は、確かに怖かった。  静奈に傷つけられた手首は痛かった。  豹変した静奈の姿や、山森と樹里の話を思い出すと、可絵を殺そうとしたという言葉も信じられる気はする。  でも、意識を失った凛一を、静奈は殺さなかった。  殺そうと思えばできたはずなのに。  自分が無くした時間に、なにがあったのか。  何故、樹里は自分の側で死んでいたのか。  それを問うことは、もう叶わない。 「最上君」  背後から可絵に話しかけられ、凛一は慌てて手で涙を拭った。 「なに?」 「カフを見つけてくれてありがとう」  可絵に抱かれた子犬は、とても安心した顔で凛一を見ている。 「その子、カフっていうんだね。第二校舎の生物室にいた時に、急に現れたんだ」 「第二校舎に?」 「うん。その……藤木さんがいなくなってから、いろんな事があって」  そういって自身の右目にそっと触れる。  
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

52人が本棚に入れています
本棚に追加