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「なぁ、お前知ってる?」
「ねぇ、聞いて聞いて!」
翌朝、登校した凜一は、自分のクラスの教室がある二階の廊下を歩いて驚いた。
昨日の凶行。
その話題で持ちきりだったからである。
『今日のことは絶対に誰にも話すな』
凜一の担任である社会科教師、近藤は事件の後、口をすっぱくして何度もそういった。
しかし蓋をあけてみればこの通り。
四クラスが並ぶ狭い廊下で、凜一のクラス、二組を中心に生徒達は噂話に沸き立っている。
呆気にとられ、階段口に立ち尽くす凜一の後ろから、
「なんの騒ぎ?」
と、問いかけられてドキッとした。
「えっと……」
自分のクラスメイトじゃなかったらどう説明しようと悩みつつ、振り返る。
そこにはトロンとした眠そうな目で首を傾げる、可絵の姿があった。
「ふ、藤木さんっ!」
「なにかあったの?」
青みがかった黒い瞳は透き通り、桜の花びらのような唇が柔らかそうに揺れる。
ドキドキと激しく高鳴る胸を押さえ、凜一は慌てて可絵の顔から視線を逸らした。
直視していたら心臓が止まるかもしれない。
「た、たぶん、昨日の三苫先生のことが話題になってるんじゃないかな」
「三苫先生のこと?」
全く表情に変化のない可絵のないの態度に、凜一は驚く。
「え? 藤木さん知らないの?」
「うん。わたし、昨日眠かったから調理実習休んだの」
(休んだって……)
それってただのさぼりなんじゃ、と思ったけど凜一はあえてなにも言わなかった。
可絵は何もいわない凛一を不思議そうに見ていたが、会話が終了したと判断したのか、その場を立ち去ろうとする。
「あ、藤木さん、待って!」
慌てて凜一が後を追いかけようと声をかけると、その右手を後ろから誰かにぎゅっと引かれた。
「えっ? な、なにっ……」
「傷ついた親友置いて行くってどういうこと? ひどすぎるにも程があるっつーの」
振り返らなくても誰かわかった凜一は、一気に体から力が抜ける。
「傷ついたって……薄皮一枚切っただけだったんだろ? 航太」
凜一の手を握りしめたまま、陽気な笑顔の友人が隣に立つ。
握る手に力を込められ、凜一はやや乱暴に振りほどいた。
「気持ち悪い」
「あ、いやん。もっといたわってよー」
大きな絆創膏が目立つ右手。
ちょっとだけ湧き上がる罪悪感も、くねくねと体をよじる幼馴染の不真面目な態度に、かき消される。
無言のまま凛一は一人教室に向かって歩き始めた。
廊下で噂話に花を咲かせていた同級生たちが二人に好奇な目を向ける。
ヘラヘラ笑う航太のような強い心臓が自分も欲しい、そんなことを考えながら凛一は二組の教室に入っていった。
教室の中も廊下と同様。
三苫の話題で持ちきりだった。
実習室に残った東堂や真壁はまるでヒーローのように持ち上げられており、呆気にとられた凛一が呆然としていると、
「みんな暇人だなー」
呑気な口調で航太が笑い飛ばす。
それがなにかの合図だったかのように、クラスメイト達は一斉に航太を取り囲んだ。隣にいた凜一を押しのけて。
「え? あ、ちょっ、ちょっ」
凜一は勢いよく弾かれ、黒板の前に転がる。
しかし誰も凜一を気にかけるものはいない。
皆、口々に航太に「すげー」とか「強いんだねー」などと声をかけている。
航太はすぐに自分の状況を理解し、右手を勢いよく天に向かって振り上げた。
「こう、こうして取り上げたんだっ!」
周囲の女子生徒が「かっこいいー!」とか「勇気があるのねー」と沸き立つ。
航太の口舌は絶好調で、教室に入るタイミングを逃した凛一は廊下に座り込んだまま顔を背けた。
なんとなく面白くない。
(ミトンを使ったらどうかって言ったのは僕なのに)
大きなため息をつき立ち上がろうとした眼前に、にゅっと白い手が伸び出た。
顔を上げると、突撃インタビューを免れたらしき静奈の姿が。
「大丈夫?」
白く細い手首には赤い革の腕時計。
小顔を強調するボブヘアに、涼しげな目元。
ボーイッシュな外見でハキハキとした物言いをする行動力のある静奈だが、今日はどこか疲れた様子を感じさせた。
どちらかというとおとなしいタイプの凜一は、今まで特に会話らしい会話をしたことはない。
差し出された手を取るべきか悩んでいると、察した静奈が無言のまま凜一の手を掴む。
「え? あ、あの……」
細身の体からは考えられないような強い力で引っ張られ、凜一の体はぐいっと持ち上げられた。
(これって立場逆転のやつじゃ・・・)
周囲の目を気にしながら、慌てて自分で体制を整える。
「あ、ありがとう」
情けないやら恥ずかしいやらで俯きがちに礼を口にすると、
「ううん。みんな興奮してて周り見えてないから、災難だったね」
と労われた。
凜一はやや天狗気味の幼馴染に視線を向ける。
「最上君、ああいうのは目立ちたい人だけ目立てばいいんだよ。
私達はかかわらないようにしよう」
「あ……うん」
静奈が自分の席に移動するのをなんとなく見ていた凜一は、人だかりから少し離れた位置で、東堂と真壁が面白くなさそうな顔で航太を見ていることに気が付いた。
あきらかに迷惑そうな表情はギスギスとした雰囲気を醸し出している。
なんとなく嫌な予感がしつつ、凜一も自分の席に座った。
窓際の後ろから三列目。
斜め前の席に座る静奈は一限目の英語の予習を始め、その更に斜め前にいる可絵は机に伏して寝ている。
こんな状況でも眠れる可絵に驚きつつ、窓の外に目を向けた。
水色がかった青空に浮かぶ小さな綿みたいなうろこ雲。
猛暑の終わりを告げるように教室に吹き込んだ冷たい風が、凜一の首筋を撫でていく。
白くキラキラと輝く太陽の光に目を細めながら、机に顎肘をついた。
(三苫先生……あれからどうしたんだろう。手、大丈夫だったかな)
家政科担当の三苫良子は三十代後半の既婚者だった。
育児休暇から復職したばかりの三苫。
家庭の円満さが見て取れるくらい、いつも笑顔で穏やかな空気をまとっていた。
それなのに何が彼女をあのような凶行に駆り立てたのか。
授業開始の時、実習室にいなかった凜一にはまったく想像もつかなかった。
考え出すと止まらなくなった凜一は、誰かと話したくて教室内に視線を戻す。
航太を中心とした輪に加わってないのは静奈、可絵、東堂、真壁、そして鈴秋と森田。
森田を見ていると、凜一の背中が忘れかけた痛みを感じた。
森田はクラスでも浮いた存在で、素行不良が目立つ生徒である。
短髪を赤く染め、制服はだらしなく着こなし、授業も出たり出なかったり。
暴力的で激情家なため、クラスでは皆関わりを避けていた。
凜一もどちらかといえば苦手で、昨日の件から一層話しかけたくないリストナンバー1にランキング入りしている。
予習をしている静奈、航太を睨みつけている東堂と真壁、そして森田。
その四名を除くと、必然的に鈴秋を選ぶことになった。
立ち上がり、教卓前の席に座る鈴秋のそばに移動する。が、なかなか本題を切り出せない。
「最上か。なんだよ」
目の前に立つ凜一に気づいた鈴秋は、面倒くさそうに顔を上げた。
シャープな顔立ちに吊りあがり気味な一重。
毛抜きで細くした眉毛が、力なく下がっているように見える。
「あ、あのさ。昨日、大変だったよね」
「大変っつーかグロかった。マジ気持ち悪いっしょ。頭いってるわ、三苫」
生まれて初めて、普段は皮膚に隠された人間の中を見た衝撃。
それは凜一自身にも色濃く記憶に残っている。
「俺、血とか嫌いなんだよ。思い出すと吐きそうになっから話しかけんな」
「ん? 鈴秋って医学部志望してなかった?」
「うっせーな。嫌いなもんは嫌いなんだよ」
その時、校内放送を告げるチャイムが鳴り響いた。
騒いでいた面々も押し黙り、耳を傾ける。
『おはようございます。本日は予定を変更して、ただいまより全校集会を行いたいと思います。全学年、全クラスの生徒は第一体育館に集合してください』
放送委員の女生徒の声がスピーカーから流れた。
「全校集会?」
(こんな時間になんで……)
凜一は背後の黒板の上にかかった時計を見上げる。
時刻は午前九時。
文句を言いながらも移動を始めたクラスメイト達を横目に、話題の予想がついた凛一は妙な胸騒ぎを感じていた。
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