保健室

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「りんいっちゃん、顔色悪いけど、大丈夫?」 「……うん。ちょっと、頭が重いだけ」  教室に戻った凜一と航太は、興奮したクラスメイト達に取り囲まれた。  ヒステリックに泣き叫ぶ女子生徒もいれば、気分が悪いと早退した者もいるようで、教室の中の人数はいつもより少ない。  ワイドショーのネタに好奇心を満たす主婦のように目を輝かせ、あの後どうなったのかとしつこく聞きたがる男子生徒にイラつきながら、凜一は自分の席に座り机に突っ伏した。  その態度が気に入らないと尚も絡もうとするクラスメイトを、航太が引き留める。  凜一は異常な疲れを感じていた。  加えて、突然の頭痛。  鼻の奥には今でも人肉の焼ける匂いがこびりついているようだし、校長の最期の笑顔が目を閉じていても浮かぶ。  とりあえず教室に戻ってきたものの、担任はおろか、教師が誰一人くる様子はない。  生徒はもちろん、教師達も突然の事態に戸惑うばかりで対処のしようがないのだろう。  校長の焼身自殺。  しかも全校生徒、全職員の目の前で。  胃液が逆流しそうになった凛一は口元を手で押さえる。  そんな凛一とは対照的に、目の前で噂話に花を咲かせるクラスメイト達。  目の前で人が死んだことを嬉々として語る様は、とても醜い。  案外、親しくもない者の自死とは、会話のスパイス的なものでしかないのかもしれない。  気分転換どころか嫌気がさしてきた凜一は、後方の出口から教室を抜け出した。  廊下にいる生徒達も全校集会の話で持ちきりで、凜一はうんざりしながら階段を下りる。 (人が死ぬのを見て、なにが楽しいんだろう。あんなの……ただ気持ち悪いだけだ)  心の中はもやもやとした感情でいっぱいだった。  なんで向井校長は笑顔だったのか。  熱かったはずだ。  痛かったはずだ。  でもとても幸せそうだった。  凜一はあの時の向井校長の心情を理解できないし、したくもない。  でも。  校長にはなにか目的のようなものがあった気がした。  だから死ぬことも怖くなかったんじゃないか、と。 (死ぬことすら喜びに変わること。そんなものあるのかな)  凜一の脳裏に三苫の顔が浮かんだ。  救急車で病院に運ばれ、今は自宅療養中だと担任は話していた。 (三苫先生ならわかるのかな……向井校長の気持ちが)  気になるのは校長の言葉。 『生命の本懐とは……です』  本懐。本来の願い。  校長は死ぬことが本望だとでも言いたげだった。   三苫に聞けば、それがなんなのかわかるかもしれない。  そこまで考えて、凜一は思考を停止した。  これ以上は危険だと勘が告げている。  下手に二人の心情を理解しようとして、自分自身も死を選びたくなったら……   凜一はまだまだ死ぬ気はない。  かわいい彼女をつくって、堅実な仕事について……やりたいことはたくさんある。  元々正義感が強いわけでも、謎を追いかける探偵に憧れているわけではないし、平和で温和な人生を歩むことが凛一の願いだった。  これ以上の非凡は遠慮しよう、そう結論づけ、顔をあげた。 吐き気は収まってきたが頭痛はひどくなるばかり。 「航太」  凛一は近くで雑談していた航太に声をかけ、立ち上がる。 「りんいっちゃん? どうした?」 「頭痛いの治らないから保健室行ってくる。先生来たら言っておいて」 「ついていこうか?」  航太が椅子から立ち上がると、それまで航太と一緒に話をしていた取り巻きの一人、山森豊(やまもりゆたか)が凛一の前にずいっと立ち塞がった。 「最上ってさぁーー 航太がいないと保健室もいけないの?」 「え? まじ? ださくない?」  そういって笑ったのは山森の右隣にいた田下加奈子(たしたかなこ)という女子生徒だ。  山森も田下もいわゆる今風な高校生で、凛一が苦手とするタイプだったりする。 「おいおい、お前ら口悪すぎね」 「だってさぁ、航太、今うちらと話してるのに着いてくとかいうから」  拗ねたように言うのは原田樹里(はらだじゅり)。  原田はブリーチで明るくした髪を器用に指先に巻き付け、口を尖らながら航太を見つめる。  原田が航太に気があることは周知の事実で、鈍感な凛一も気づいてはいた。  凛一は自身が嫉妬の対象にされるのは勘弁してほしくて、航太に目で訴える。 「僕は大丈夫。先生への伝言だけよろしく」  それでも航太は心配そうに凛一を見ていたが、凛一は三人の視線に耐えられなくて足早に教室を後にした。  航太は男女問わずモテる。  だからこういうことは慣れてはいたが、正直迷惑以外なんでもない。  航太が悪いわけではないが、実際、航太は凛一にとって過保護すぎた。  社交的でどんな人物とも平等に対等に接する航太が、凛一に幼馴染以上の構いを見せるのには理由があるのに。  凛一と航太の間にはある共通の秘密がある。  でもそれを誰かに話す気はないし、死ぬまで抱えようと思っていた。  航太はそのことを知らないから、凛一の行動を把握しておかないと不安なのかもしれない。 (いっその事言ってあげたらいいのかな。絶対に誰にも言わないって。 そうしたら航太も僕に構わなくてよくなるのかな)  自らが望んだわけではないが、航太から見れば凛一に弱みを握られているような気がするのかもしれない。  だから自分に必要以上に構うんだと思った時、僅かにだが凛一の心に影が落ちた。  銀色のプレートに書かれた『保健室』という黒い文字を見ながら、凛一は深いため息を吐く。  緑色の引き戸をノックしてみるが、中から返事はない。  戸惑いつつ戸を開けてみたが、校医の姿はなかった。 「先生? いませんか?」  呼びかけてみたが、返事はない。  白い四角の部屋はクリームイエローのカーテンでふたつに仕切られており、入って右には医薬品や資料が納められた棚があった。  そのすぐ近くに校医の机があり、カーテンの左側にはパイプベッドがふたつ並んでいる。  窓は開け放たれ、涼やかな秋風が吹き込んでいた。  鎮痛剤をもらいたかったのだが、医薬品のある棚は鍵がかかっているため自分で取り出すことはできない。  仕方なく窓際のベッドに横になった。  目を閉じ、深く息を吸い込む。  静けさが心地よく眠気を誘う。このまま寝てしまおう、そう思った時、廊下を駆ける足音が聞こえた。  まっすぐに保健室を目指すその音に、カーテンを閉めなかったことを悔やむ。  しかし起き上がるのも面倒で、凜一は窓の方向を向き、扉側に背を向けた。  寝ている凛一にわざわざ声をかける者もいないだろ、そう考えて。  頭が睡眠モードになったせいか次第に意識は薄れ……  扉が開く音を最後に、凜一は深い眠りの世界へと落ちていった。 ******  青い顔をした担任教師、近藤が教室に入ってきたのは、凛一が保健室に向かってから一時間もたっての事だった。  すでにその時は向井校長の話をするものはなく、ただ雑談をして騒いでいたのだが、近藤は険しい表情をしたまま生徒を諫めようとはしない。  ただ淡々とした口調で、今日の午後から明日まで休校になること。今回の件も警察の調査が終わるまで周囲に話さないこと。  それだけ告げると、すぐに職員室へと戻っていった。 (やば。りんいっちゃんからの伝言言ってないや)  帰り支度を始めるクラスメイト達を見ながら、航太は保健室に凜一を迎えに行こうと立ち上がる。  凛一の机にかかっていた紺色のスクールバッグを手に取ると、山森が声をかけてきた。 「航太、この後カラオケいかね?」  山森の後ろには加奈子と樹里がいたが、航太は首を横に振る。 「俺りんいっちゃん迎えに行って帰るから、また今度な!」  なにかいいたそうな樹里が、 「航……」 と呼びかけたが、手を振って教室を出た。  すれ違うクラスメイトに愛想笑いを返し、内心ため息をつく。  大人数でいるのは『楽』ではあるが、楽しいと思った事はない。  いつもヘラヘラとしている自分が嫌いだった。  すぐにふざける自分が嫌いだった。  人からどう見られるか、そればかりが気になって、海野航太というキャラクターを演じるようになったのはいつからか。  幼馴染の凛一は感づいているのかもしれないが、そうとは思わせないようにしてくれている。  航太はふと、自分が手にしている凛一のバッグに目線を向けた。  女子に色んなマスコットキャラクターのキーホルダーを取り付けられた航太のバッグとは対照的な、凛一のシンプルなバッグ。  大切に使用してきたからであろう、今でも新品といっても大袈裟ではない程綺麗な状態なのは、使用者の性格の現れを示していた。 (今日は嫌なもん見ちゃったし、マミタンのおいしいご飯食べて帰ろうかな)  凛一によく似たその母親を思い出し、航太の顔に偽りのない笑顔が浮かぶ。  凛一に許可を取る気はない。  きっといつもみたいに呆れた顔をしながらも、受け入れてくれるから。
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