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「おや、釣りですか、小田島先生」  長屋の障子戸を開けて出てきた小田島に、向かいのかみさんが声をかける。井戸端で青物を洗っていた他のかみさん連中も笑顔を向けてきた。 「うむ。相も変わらず鮒だろうがな」 「たまには鯉でも釣ってきてくださいよ」 「鯉と言わず、クジラでも」  ケタケタと明るい笑い声に送られて、小田島は長屋を出た。  江戸に出て来て早一年。この長屋の住人たちにもすっかり馴染んだ。生き馬の目を抜くと脅されていたが、一人一人と付き合えばみな気のよい人間ばかり。  国元で起きた凄惨な事件のために傷ついた心も体も癒えてきたと思う。  寺子屋で子供たちに読み書きそろばんを教え、先生と呼ばれてはいるが、三十年近く、武術一辺倒だった自分に生き方を教えてくれた、この長屋の住人たちこそが自分の師だと思っている。  小田島は釣り竿を肩に、籠びくを下げて、ぶらぶらと青空の下を歩いた。  土手は一面緑の草で覆われ、ときおり黄色い花が顔を出している。小名木川は隅田川から別れた支流で、その昔、家康が江戸入り直後に沿海運河として形成させたものだ。目の前を時折大きな荷物を積んだ船がよぎってゆく。そんな風景を観ながら釣り糸を垂れるのが小田島の日課だった。
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