1.膨らみ続ける水海

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 逃げなければと、逃げてもいいのだろうかが交錯する。躊躇っている暇はないとわかっていながら、もう無理だという無力感が去来する。お前はここまで来てしまったじゃないか。誰かが無慈悲に語り掛けて、手を差し伸べてもくれない。  反論できずに、ただ見下ろすと視界の隅で何かが揺れている。岸辺に葦が茂っていたせいで見えなかったが、波が少しずつ運んできたのだろう。さながら女たちからの迷惑な贈り物だ。こちらを喜ばすためでなく、結局は奴らの満足のためだ。 その何かは、死体だった。沈められていたものが、ガスにより浮いてしまったのだろう。歪に膨らんでしまった体に、藻や水草が張り付いている。それとも見つけてほしかったのだろうか。汚い緑で飾り付けてまで? いや、お前もこうなるぞという警告かもしれない。どちらにせよ、胸糞悪い気分だ。  死体越しに底を覗き込む。上澄みは綺麗だが、すぐに淀み、何も見えない。死体のいた世界では、視覚が必要ないのだろうか。淀んだ底から泡が上ってくる。もしかしたら、この下にはまだまだ死体が眠っているのかもしれない。寝息を立てながら、待っているのかもしれない。優しく抱き起してくれる誰かを。共に寄り添って眠る誰かを。  死体を眺め続ける趣味もないし、まだ眠るには早い。道はまだ続いているのだから。誰でもいいから誰かを求める水など、死体など、相手にすることはない。生臭い香りを振り払う。周囲の気配は何事もなかったかのように沈黙している。浮かんでいる死体を押せば、軽く上下しながら離れていった。  それでも、いつかは同じように並ぶのだろうという予感は拭えなかった。
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