摩訶般若波羅蜜多心経

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佛道はひとえに実践 佛教は、あくまでも一宗教に過ぎず、答えではない。では、どの部分が答えではないか、四苦八苦などは、道理ではないと考えられる。ただそれに陥った際の対策として四諦を説かれている。かるがゆえ釈尊は最後に不戯論をお説きになられたと言える。答えに至る最善の方法として『基本十条戒あって相対的な物事を平等に見る無差別の視点を持つことが重要。』即ち仏教というものは阿弥陀の世界、比べない同一視の不戯論の世界観です。仏教というものは、甍を仰ぐものでも仏像や絢爛豪華なたたずまいを眺めて満喫するものでもない。しかしどうでしょう。何のために立派な建造物を建て精巧な仏像を作り過去の先人が何を表現したかったかを想像すれば、それは有無を言わさぬ『まどろみ』であるに違いない。現代には博物館。博物館にはよく仏像や曼荼羅が展示される。人々は美しいものを見る時、『まどろみ』の状態となる。それは見事な夕日を見る黄昏とも言えるだろう。佛道とは、『まどろみ』であると言って過言ではない。『まどろみ』の状態を積むことが、修行を積むということであり、それが身と心の修復であり、その延長線上にある摩訶(不思議)なる般若(無償の愛の交信)の波羅(波と森羅万象)を心(うけいれる)こと。いわゆる私の意図するこの世界にいる真実のスルーとは真理、十戒を宗として、自由になること。それが『まどろみ』なのです。
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