ナズナと電鈴

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 翌日、愛実を見送った後、吉川は一人で朝食を食べていた。テレビでは朝の占いが流れている。山羊座は最下位。ラッキーカラーは紫、ラッキーフードは紅茶。吉川は朝食を済ませると、着替えの為にクローゼットに向かった。  カフェに現れた小百合は、桃色のロングコートに淡いブルーのワンピースを着ていた。肩まで伸びた黒髪は艶やかで、さくらんぼ色のリップがつんと尖った唇の上に乗っていた。 「久しぶりね」と、彼女は言って手を振った。「豊くん、変わってないね」 「小百合ちゃんだって」 「また会うなんて思わなかった」 「俺も」吉川は、そう言って真向かいの席に座った。「最近どう?」 「相変わらず、子供達に囲まれてるよ。保育士は私の天職だと思うの」 「いいね。そう思える職に就けて」  店員がやってきて、テーブルにコーヒーとオレンジジュースを置いていった。吉川は小百合にストローを手渡した。 「私、重い女だったと思うの」と、小百合は言った。「今考えると分かる。当時の私は貴方を精神的に束縛していた」 「いや」と、吉川は曖昧な返事をした。「俺も、仕事が忙しくて時間を作れなかったし」 「貴方は優しい人ね」  そう言って笑った小百合の表情は、一年前と同じように柔らかかった。けれど、その柔らかさには温度がなかった。まるで、年月の経った剥製に触れたかのような。 「どうして貴方を好きになったのか、分かるような気がするわ」  二人はその後、近況を報告し合い、別れた。色っぽい話題はなく、次に会う約束もしなかった。
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