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「おはようございます」
吉川は制服に着替え、担当仕業にチェックを入れた。運行状況、連絡事項を確認してメモを取る。時刻を合わせ、アルコール検査を終わらせると吉川はホームに向かった。
駅は乗客で賑わっていた。車掌のアナウンスにブレーキ音、滑るように侵入する電車の力強い動き。それらを見るだけで、吉川は心が躍る。運転手になって十一年、今でも童心に戻れるこの仕事を、彼は天職だと思っていた。
昼頃になり、吉川は乗務を終えて休憩に入った。同僚達がコーヒー片手に世間話に花を咲かせていた。
「お疲れ」
そう言って、手を上げたのは吉川と同期の運転手、北村幸雄だった。
「お疲れ。今日も何も無ければいいね」
「今日はバレンタインだぜ。ホームにダイブする馬鹿が出るかもよ」
北村は何が楽しいのか怪鳥のような笑い声を上げた。北村は、根は良い奴だが時々、冗談が過ぎる所があった。
「吉川はチョコ貰った? 俺は、駅務係の女の子に一つ貰ったぜ」
「そう」と吉川は言う。そして、隠す事でもないなと、「前の彼女から、クッキーと小物が送られてきた」
「元カノから? ヨリを戻したいって?」
「いや、そういう感じでもないんだけど」
「怪しいぜ、それ」北村は妙に真面目腐ってそう言った。「俺も似たような経験があるよ。半年前に別れた彼女から誕生日プレゼントが送られてきてさ。それが、黒のセーターだったの」
「それで?」
「どう見ても既製品じゃなかった。手作りなんだよ。ちょっと、気味が悪いだろ? で、探ってみたら毛糸に髪の毛が織り込まれてた。俺、マジでぞっとしてさ、すぐにそのセーターを捨てたよ」
「別れ方に問題があったんだろ」
「それは確かに」と、北村は認めた。「でもさ、自分の髪の毛を編み込むって凄い執着じゃない? そういうまじないがあるらしいけどさ。両想いになるっていう」
「彼女はそういうタイプじゃない。そんな酷い別れ方もしてないし」
「本当かあ? 円満な破局ってこの世に存在するのかあ?」
「あんまり深い意味はないんだよ。きっと」
吉川はコーヒーを啜る。淡いクリームの奥に、今朝食べたクッキーの苦味が残っていた。
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