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「――ちとせがわ?」私は思わず聞き返した。
「今、千歳川とおっしゃいましたか?」
私の声の上擦りように、不思議そうな面持ちで、「ええ」と頷いた。瞬間、私は喜びとも畏怖ともとれる感情の昂りに身を震わせた。
何ということだ……私は今日、この時ばかりは普段認めてもいない神の存在を信じざるを得なかった。むしろ敬虔な信仰心を以てして祈りを捧げたいとさえ思った。
再び顔を覆った私に驚いた奥さんが、慌てて、「どうなすったんです」と声をかけてくれた。私は嗚咽混じりになんとか声を絞り出した。
「ちとせは……千歳は死んだ恋人の名です」
ああ、やはり彼女が私をこの場所に誘ったのだ。彼女はずっと、ここで私を待っていてくれたのだ――私は心からそう感じた。そう感じざるを得ないではないか。こんな、こんな偶然が一体どこにあろうか。ただありがたくて、とてもありがたくて、私は泣いた。
こんな私にもまだ、償う機会はあるだろうか。幾ら償っても償いきれない彼女に、願わくは、心から償うことは……。
「知り合いの民宿を紹介しますから、今日は村に泊まっていきなさい」
不意な言葉に私が顔を上げると、奥さんは優しく労るような眼差しで私を見ていた。
「祭り、参加しませんか」
遥か川上から、夏の盛りの風が吹く。脇を流れる清流の音が、私の穢れきった耳を、体内を、心ごと洗い流していく。
――私はこの為に今日まで生きて、この為に津留江村に来たのかもしれない。
心を決めて目許を拭うと、私は頷いた。
足元の吾亦紅が、緩く吹く風に揺れていた。
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