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夢と現
瞬く間に周囲の人々の話し声、姿、気配に至るまでその一切が急速に遠退いていった。辺りは濃い静寂に包まれる。黒曜石を一面に張り巡らした空間に、暖色の淡い光を灯した花燈籠が絶えず流れ行く。その明かりに照らされた、私と彼女が向かい合う。
――銀河の中に二人ぽっちで居るみたいだ。
「ちとせ……千歳!」
私は堪らず叫んだ。すぐに駆け寄りたかった。しかし何故か足がまったく動かない。まるで足首からコンクリートで固めてしまったようだった。
千歳はじっと私の方を見つめていた。そのぼんやりとした表情からは、彼女に満ちるのが悲しみか、それとも怒りなのか判らない。
「千歳、すまなかった。本当にすまなかった。私の所為だ……わたし、の」
私はひたすら頭を下げた。許しを乞うていたのか、それとも罰を欲していたのか、私にも分からない。目を伏せて、足許の砂利を見続けた。
不意に風が吹いた。何かを急かすような、妙に騒がしい風が。
そして、私は悟ったのだ――今までに何度、どれだけの間、彼女と目を会わせ話しただろうか、と。
それは靄のかかっていた私の思考を一瞬で澄み渡らせるといった閃きだった。あるいは、今までに感じたことのない強い衝撃だった。
大切なのはそんなことではない、今必要な言葉は他にあるはずだ。
私は顔を上げ、しっかりと彼女の瞳を見た。後悔と罪悪感で固めた鎧を纏い、本質から逃げ続けるのはもう止めよう。
目と目を合わせ、私は大きく息を吸った。
「――ありがとう」
気持ちばかりが先走り、発した言葉は頼りなく震えていた。
私は胸元に右手を遣った。そこには、チェーンに通して首から下げた、二人分の銀の指環がある。
「私と暮らしてくれてありがとう。愛してくれてありがとう。出逢ってくれて、ありがとう……愛している」
ずっと難しいと思っていた感情は、実際はこんなにもあっけなく言語化できた。いとしい、いとしいと啼く心は、何度言葉にすれば彼女に届くだろうか。
「千歳、愛している。愛している……」
ふっと、千歳の表情が綻んだ。記憶の彼方に過ぎ去ってしまった遠いあの日の微笑みが、今、目の前に蘇る。春の日の木漏れ陽のように温かなその笑顔を、私は漸く取り戻すことができたのである。
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