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当たり障りのない言葉を一つ二つ交わす。当然のことだが、向かい合う奥さんの瞳には懐疑心と戸惑いが見受けられる。私は財布から名刺を一枚取り出し、「こういうものです」と奥さんに差し出した。
「大学の先生が、一体何の御用で……」
「それが、名刺を出しておきながら全く個人的なことでして」
人差し指で頬を掻き、私は苦笑いを浮かべて断りを入れた。
「『かぎろい川』なる川を探しているのです」
けれど中々見つからなくて、と告白した私を見る奥さんは、とても驚いていた。
「他所の人が、どうしてその名前を……」
奥さんの唇から零れた言葉はとても小さく、私は思わず「はい?」と訊き返すと、奥さんは改めて私に尋ねた。
「何故、『かぎろい川』のことを知っているんですか?」
「知っていると言いますか……そこは私の……その、恋人の思い出の場所なのです」
だから、どうしても行きたいのですが……と、私はそこで唇を噛んだ。
両膝の上に乗せた掌をぎゅっと握り締める。言葉が喉に張り付いてしまったように、私は押し黙ってしまった。
すると奥さんは丸い目を一瞬見開き、ふふっと人好きのする笑顔で笑った。
「そうでしたか……ですがそもそも、『かぎろい川』じゃあ調べても出てきませんよ。 村のお年寄りの中で使われるような、特別な別称ですからね」
本当の名は別に存在するということか。だから幹太も知らなかったのだ。
本当の名前は、一体何と言うのだろう。私が口を開くより先に、「今からそちらに連れて行きましょう」と奥さんが言った。私はいよいよ申し訳なくなってきた。
準備でお忙しいでしょうと一旦遠慮したものの、心配御無用どうせ大したことではございませんからと笑って押し切られてしまった。その豪快な優しさに感謝の念を抱きつつ、私は冷えた麦茶を口に運んだ。
グラスの中身が半分ほど減ったところで、車を用意するからそれで行きましょうと言われた。私は麦茶を一気に喉へと流し込み、幹太に一言礼を言って居間を出た。
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