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どすっかり忘れていた。早く帰らなければならないのはわかっているのだが、時間稼ぎでもしたかったのか、俺はデパートの催事場にいた。ホワイトデーの特設コーナー。同僚へのお返しを選んでいたはずだったが、こんな思いで頭がいっぱいになった。妻にとっての最高のお返しは、離婚届けを埋めて返す事ではないのだろうか。妻がパートで自分が正社員だからって共働きって意識が低かったのかもしれない。それよりも近頃大切に出来ていなかったのかもしれない。不満に思いながらも、笑顔を作って今まで接していてくれていたに違いない。
気づけば、義理チョコのお返しを買う事なんかすっかり忘れて、カフェに入っていた。離婚届を鞄から取り出し、署名、押印。
重い足を引きずりながら家に着く。妻は腕組みをして玄関で待っていた。離婚届を渡す。
「俺は別れたくない。」
そんな言葉を添えてしまっていた。
妻は、
「私もよ。」
と言って、離婚届をビリビリと破いた。表情が一転する。
「あなた最近私の事が見えてないみたいで寂しかったから、ちょっとした作戦立てたの。ドキドキさせてごめんね。振り向いてくれて嬉しかったよ。大好き。ありがとう。」
「へ? …え? え?…。」
心がへなへなになるのを感じた。さっきまで凄まじく緊張していたことを思い知る。ちょっと度を越えたいじわるだが、こんな時の妻の見せる笑顔は、誰よりも可愛い。キッチンにはそれはもういろんな種類のご馳走が用意されていた。少々ひどい事をされても許せてしまう。和気あいあいとした食卓がそこにはあった。
「もし俺が別れたくないって言ってなかったらどうしてたの?」
「その時は、ドッキリでした?って。」
「それだけ?」
「それだけよ。」
呆気に取られる。けど、そうだった。昔からこういうところがあった。いつも俺が手のひらの上で転がされる。思わず吹き出してしまった。もう怒るタイミングは失ってしまった。これで俺の苦しかった一か月は終わった。
バレンタインデーなのに甘くなかった。こんなに重たいチョコをもらったのは、後にも先にも、この一度きりだ。
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